私が物心がついたら、いわばサティアンの中にいた。統合失調症の症状を見せられる。

統合失調症の各種妄想的なものを押し付けられては、信じさせれることが、私の小さい頃の日常だった。


辛うじて残っている3歳くらいの頃の記憶は、母親がやたら切れている姿だった。

その頃は、家に近所の同世代の子たちが遊びに来ていたのを覚えている。


どういうわけか知らないが、我が家は同世代の子達の遊び場だったらしい。

色々な子達が遊びに来ていたのを覚えている。

それが母親の面倒見の良さが関係していたのかははっきり覚えていない。


しかし、ある時から全くそういう子たちが遊びに来なくなった。

母親が何かしらの理由で、遊びに来ていた私の年上の子を気に入らなくなり、

その親と仲が悪くなったため、近所の評判が悪くなったのが理由のようだった。

また、すでに統合失調症の症状が出ていたため、気違いの家と呼ばれるようになっていた。


そこから私は自分の世界に引きこもった。

ある日から私の日課は、ひらがなとカタカナ、数字を一通り書くことになったようだ。

それでいて、近所の子供たちとはほとんど交流することはなくなった。


母親はこの頃から、「近所の奴らとは付き合うな!あいつらは俺らを殺そうとしているから」と私に言って効かせるようになった。


その一方で母親は、昔の陸軍のような教育が正しいと思っている気があった。

有無を言わさず頭ごなしに怒鳴りつければ人の教育になる、そう本気で思っているようだった。

遊ぶ友達がいなくなったら、頭ごなしに怒鳴りつけられ、手が出ることが当たり前になった。


弟が生まれる時に、父方の祖父母宅に預けられた。

母親の教育方針と、父方の祖父母の教育方針が合わなかったのか、

家に帰されると、大小便のお漏らしをしょっちゅうするようになってしまったらしい。


母親は私の教育として、怒りを全力で注ぎ込んで私の尻を叩いた。

そこまでしても、全く言うことが聴けなかったからだろうか、お灸を据えるといって、

親指の先ほどに丸めたもぐさを私の背中の上に置いてライターで火をつけた。

また、男性器の付け根のあたりにも同じように、丸めた百草を乗せて同じように火をつけた。


ライターで着火した百草はお灸ではない。ライターの直火を押し付けられているようなものだ。

悲鳴を上げて泣き叫んだのを覚えている。泣き喚くと、母親が思い切り尻を叩いてくる。

「ここまでしても言うことを聞けないのか!聞けないのか!」

そのあと、灸を押し付けられた跡は真っ黒焦げになっていたのを覚えている。

その時私は、母親にスイミングスクールに通わされていた。

そうした火傷を負って、全く治っていない状態で、すぐに水泳をしてしまったものだから、

膿が激しくなってしばらくの間苦しんだことを未だに覚えている。

一生消えない火傷傷が残ってしまった。この火傷傷は小学生の頃に、コンプレックスを抱く原因の一つになる。


一方で「しつけ」には失敗していたらしい。

後年母親は私の躾を失敗したと話すようになっていた。

人に対して挨拶をしたり、人の気持ちを考えたり、整理整頓したりが全くできなかった。


そんなこんなで5歳の年に幼稚園に入った。

母親の希望する家から近い市立の幼稚園は入れず、やむなくバス通学のミッション系の私立の幼稚園に入った。

母親は市立の幼稚園に私がくじ引きで落ちたことを、ひたすら呪っていた。

私にくじを引かせて、私が引いたくじは41番だった。定員40名だったのでハズレくじだった。

それからは41という数字を見ると、お前が変なくじを引いたからだ、とブツブツ文句を言うことがしばしばあった。


幼稚園は最悪だった。

近所の友達づきあいを絶たれため、どう友達と接していいのかがよく分からなかった。

そのため、入園してからは、休み時間は教室でずっと一人で孤立していたようだった。


この状況を見て、母親は私が友達と遊んでいないことを担任のせいにしていたようだった。

「あの担任は、うちの息子を動物園の檻に入れるような真似をしやがって」

担任の先生に怒鳴り散らしたりは日常だった。

園長先生との面談の場で、私が傍にいる場で恨み言を言っていることもあり、当然のことながら幼稚園との関係が悪くなっていた。

私は年中組が終わる前に、幼稚園を中途退園させられていた。


近所づきあいも同世代の友達の付き合いも絶たれてしまっていた。

母親の統合失調症の姿が、あたかも世の中の親の当たり前の姿のように見せられる生活が始まった。