幼少期を過ごした長屋の記憶に

外せないものがある。

 

わたしが幼稚園に入るころ

両親がプレゼントしてくれた

2人乗りの赤いブランコ。

 

裕福ではないのに

娘たちのために

頑張って買ってくれたのだろう

 

 

わたしは玄関先の左側に置かれた

そのブランコがお気に入りで

雨の日以外

毎日乗っていた。

近くに公園がなかったので

わたしを遊ばせるのに

母も助かっていた…

 

今思うと

娘たちのため

というより

母のため(笑)

 

 

秋の夜長

その日は日曜日で

父は毎週20時から大河ドラマを観ていた。

ドラマが終わるくらいに

お隣のおばちゃんが

何かのお裾分けを持って来た。

 

母がおばちゃんと話している間をすり抜けて

わたしは一目散に

ブランコに飛び乗った。

 

星の見える夜にブランコに揺られて

とてもワクワクした。

そのまま銀河鉄道に乗って

飛び立っていくような

イメージだったと思う。

 

母とおばちゃんの話が終わり

家に入るように促された。

 

 

 

わたしは現実に連れ戻されるのを

拒んだ。

 

 

 

母とおばちゃんは

「はよ帰らな怖い人が来るで‼」

と脅してきた。

 

わたしはスルーして

ブランコに揺られた。

 

と、同時に

あのラッパの音が…

 

チャララ~ララ

チャラララララ~♪

 

暗闇に浮かぶ、その薄暗く

ぼうっと赤い灯りの

怪しげな引き車を見たわたしに

間髪入れずおばちゃんが

 

 

「ほらっ‼ 来た‼」

 

 

 

 

「いやーーーーーっ‼‼」

 

 

 

 

わたしは叫び声を上げながら

履いていた草履を放り出して

再び一目散に、しかしさっきとは違い

顔面蒼白で家に逃げ込んだ。

 

晩酌していた父の胸に飛び込み

震えあがった。

 

 

父と母とおばちゃんは大爆笑。

 

 

わたしはしばらくの間

夜がとても怖かった。

 

言うことを聞かなかったら

本当にあの引き車に連れていかれる…

 

 

 

そうしてこの出来事は

わたしが中学生になるまで

親戚の間で語り草となった。

 

 

わたしを連れ去ろうとした

その引き車が

屋台ラーメンだと知ったのは

小学校に入ってだいぶ経ってからだった。

 

 

屋台ラーメン、

名誉棄損やん。

 

でも55年くらい経つから

時効やね。

 

 

次回は、

~ランドセルを背負った日~

をお伝えします。

 

 

 

 

~長屋の彼との空想話~

 

守口市駅に繋がる大通りから

入り組んだ道の一角に

わたしたちの暮らす長屋があった。

 

長屋は向かい合っていて

20軒ほどだろうか。

いつもお菓子をくれるおばちゃんや

足の悪いおじいちゃん、

遊んでくれるお姉ちゃんや

いつも表情が変わらないお兄ちゃんも

みんな顔見知りだった。

 

わたしの家は大通りから入って

左側の真ん中にあった。

同じ並びの大通り沿いには

よく遊んだ年下の男の子が住んでいた。

 

わたしは時々そこにお邪魔して

おばちゃんが内職をしているそばで

男の子と話をした。

頭がよくていろんなことを知っていた。

 

 

ある日、

飛行機の話になった。

 

 

飛行機の話を熱弁する彼に、

「わたしひこうきのったことあるもん。」

 

 

もちろん生まれて4年間地上から離れたことなどない。

 

 

彼があまりに一生懸命話すから

わたしもその話に入りたくなったのだ。

 

しかし飛行機のことは

“空を飛んでいる”ことしか知らない。

 

 

 

彼は驚いて、

「すごいね!どんなんだった?」

 

 

わたしはMAX想像力をはたらかせた。

 

 

 

 

「あんな、ひこうきのまどをあけてくもをとってん。」

 

 

 

 

「へーーーーっ‼」

 

 

 

 

彼のあまりのリアクションのよさにうれしくなって

更に続けた。

 

「ほんでな、そのくもを…

 

 

 

 

ぱくっ」

 

 

 

 

「すっごーーーーーっ‼」

 

 

 

 

その後は

二人で空中の『雲』を取って

ぱくっ

むしゃむしゃ

 

 

何度もその小さな腕を伸ばして

『雲』をつかみ

 

ぱくっ

むしゃむしゃ

 

 

爆笑しながら

 

ぱくっ

 

 

 

 

思い出して恥ずかしくなる。

 

 

幼いながらに、

『噓をついてしまった』という

罪悪感があったのだろう。

 

今もわたしの心の奥の底の方に

小さく残っている。

 

 

次回は、

~赤いブランコとチャルメラのラッパ~

をお伝えします。

 

 

 

 

夏休みが終わりに近づくころ

母方の曾祖母の家に

親戚一同が集まって

地蔵盆が毎年行われていた。

 

近隣住民の家や道路わきの

お地蔵様に合掌して

駄菓子を頂いて回るという

 

ハロウィンのような行事

 

浴衣なので仮装はしない。

 

夕方から1時間ほど回って

スタート地点の曾祖母の家に戻り

母親たち手作りの

ちらし寿司が振舞われるのが

恒例だった。

 

父親たちは久しぶりの再会に

ビールを飲みながら

歓談していた。

 

江戸時代末期から存在した曾祖母の家は

10畳の部屋が4つほどあって

大きな庭に面した広い縁側があった。

 

5歳の誕生日を目前にしたわたしは

そこでくつろぐのも慣れた感じで

地蔵盆もエキスパートの域に入ろうとしていた。

 

夕飯をいただいた後

子供たちで遊びながら

縁側で夕涼みをしていた時

親戚のおばが可愛いうちわを持ってきた。

 

パンダの絵が描かれたピンク色のうちわ

 

嬉しくて上機嫌でうちわを扇いだ。

 

 

そこへ怪獣3歳児が乗り込んできた。

和気あいあいの夕涼みから一転

うちわの奪い合いが始まった。

 

女子は赤ちゃん2人とわたしと怪獣

男子たちは呆然としながら観戦

 

激戦を繰り広げ、怪獣が泣き出し、

周りの大人は

「お姉ちゃんだから我慢しい」

 

うちわを怪獣に渡すよう示談交渉してきた。

 

わたしは、

これだけは渡さない‼

 

と決心し死守したが

「妹を泣かして意地悪いなあ」

 

と誰かの声がしたと同時に

母がわたしから取り上げて

怪獣に持たせた。

 

パンダのうちわを持った

泣き腫らした赤い目の怪獣と

アサガオの絵の青いうちわを持った

意地悪そうな太々しいわたしが

今でも色褪せた写真の中にいる。

 

 

「喧嘩になるようなもん

持ってくんなや」

 

そう思ってくれてたらうれしいな。

父・母。

 

 

次回は、

~長屋のお友達との空想話~

をお伝えします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログビギナーのわたしは、

ほかのブログの編集中に

幼少期④の~生まれて初めての傷心~

を失ってしまった。

自分の書いたものが消滅することのショック…

数え切れない傷心を経験してきたが、

またしても。

 

ということでリベンジ‼

 

 

 

 

ある日のお絵描きの時間

ドーナツ状に並べられた机。

 

その中心に置かれた机の上には

平べったい籠に入った

にんじんが2本

 

 

配られた画用紙いっぱいに

大きなにんじんを描いた。

 

画用紙の中の

存在感のあるにんじんのオレンジ色が

画用紙の白に鮮やかに映えて

うれしくなった。

 

 

となりの男の子が

不意にわたしの絵を見て

 

 

「ぶっといにんじん‼www」

と大笑いした。

それを聞いた周りの男の子たちが

 

「何それー⁉www」

「にんじんとちゃうーー‼www」

 

仲良くしていた女の子まで

「変なのーー‼www」

 

それまで静かだった教室は

わたしの『にんじん』をきっかけに

どんちゃん騒ぎになった。

 

 

わたしがしょんぼりしているのを見た

グラマラス先生は

私のそばに来て

「書き直す?」

と聞いた。

 

わたしは細いにんじんに描きなおした。

 

 

提出した20人ほどの『にんじん』は翌日、

教室の後ろの壁の上の方に貼られていた。

 

わたしの描きなおした『にんじん』は

それでもみんなのにんじんより

だいぶ太かった。

 

 

この『にんじん』で

何日からかわれたのかは

覚えていないが

 

心の中の深いところでは

傷つきながらも

 

「何が悪いねん‼」

と毒づいた。

 

 

次回は、

~畳10畳にピアノがきた~

をお伝えします。

 

 

 

 

 

 

 

わたしは昆虫が苦手だ。

 

あの、うじゃうじゃしたビジュアルが視覚に入ると

 

気絶しそうになる。

 

 

長屋に住んでいた時は

 

玄関から部屋が近かったので

 

庭先の植物のあたりにいる蟻が

 

時々玄関先に現れた。

 

その招かれざる客を見る度

 

なまはげを初めて見た子供のように

 

持ちうる限りの声で泣き叫んだ。

 

 

わたしが5歳になる年の、ある暖かい日のこと。

 

母が台所で用事をする間

 

わたしは妹に絵本を読み聞かせていた。

 

おそらく、うまく読めないので

 

想像力をはたらかせて

 

夢中で読んでいたのだと思う。

 

絵本に興味のない妹は

 

積み木を触ったり

 

ぬいぐるみを嚙んだりしていたが

 

いつの間にか庭先に出ていた。

 

今から55年ほど前の長屋の風景は

 

日が明るいうちは玄関ドアも外に面した台所の窓も

 

開けっ放しだった。

 

家は道を挟んだ向かいも長屋で

 

車は入ってこれないようになっていた。

 

 

わたしは妹が外に出たことに気づき

 

大声で母に知らせた。

 

母はすぐに妹を連れて部屋に戻り

 

再び台所へと向かった。

 

妹は着ていたスモッグのポケットに手を入れて

 

何かをばらまいた。

 

妹のポケットから放り出された『何か』は

 

初めは丸かったがすぐに沢山の小さい足が出てきて

 

何匹もの虫が畳の上を這いだした。

 

 

今思い出しても地獄のようだった。

 

わたしは泣き叫び、

 

白目をむいて泡を吹いていた…イメージだが。

 

 

3歳のあどけない怪獣は

 

そんなわたしの様子を見て楽しんでいたのだ。

 

何度も嫌がらせを受けたわたしは

 

次第に反撃するようになっていく。

 

 

次回は、

 

~親戚たちが集まる夏の日のできごと~

 

をお伝えします。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの記憶がまだはっきりしないとき

 

定期的に若い女性が数人

 

わが家に出入りしていた。

 

2DKの手前の6畳ほどの部屋に

 

大きな折りたたみ机がふたつ置かれて

 

色とりどりの布や糸、

 

裁ちばさみやまち針などを使っていた。

 

わたしは襖を取り払った奥の部屋にいて

 

母は育児をしながら裁縫教室を経営していた。

 

製作品が完成した時の女性たちの喜びが

 

幼いわたしの記憶に微かに残っている。

 

 

母は自分とわたしの洋服を全て作った。

 

おかげでわたしはオシャレなこどもだった。

 

母も1960年代のイケてるファッションで

 

石原裕次郎を意識してるんやなあと分かる

 

モデルのような父と古い写真に写っている。

 

物心つく頃のわたしは

 

父のモテ話を何度も聞かされ

 

ああ、また始まった

 

と心の中の深いため息が漏れ出ないように

 

気を付けるようになっていった。

 

ちなみに母は今でもオシャレなイケメンが好きだ。

 

よく騙されずに生きてこれたなあと思う。

 

 

男の人の外ずらと内側の大きなズレを

 

目の当たりにして育ったわたしは

 

イケメンを見ても何とも思わない少女に成長した。

 

それでも例外が一つある。

 

わたしが20歳の時にデビューした

 

B’zの稲葉さんを見たときは

 

内と外のズレなんて関係なく

 

心を奪われた。

 

 

母は裁縫教室の利益と大手企業に勤めていた父の収入で

 

マイホーム購入計画を進めていた。

 

父はしっかり者の母に家計を任せて

 

定年退職までせっせと働いた。

 

途中さまざまなトラブルが多々あったが

 

乗り越えれば何とかなるもんだなと

 

しみじみ思う。

 

 

そしてわたしが7歳の12月

 

慣れ親しんだ守口市の長屋から

 

寝屋川市の一軒家に引っ越すことになる。

 

 

次回は、

 

~怪獣のいやがらせ~

 

をお伝えします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幼稚園でのカリキュラムの一つに

 

大学の専門科目のような課程があって

 

体育・音楽・美術・技術などのいくつかの科目の中から

 

興味のある授業を選択するというシステムで

 

わたしは母から「どれがいい?」

 

と聞かれた。

 

母の思いとは違う科目を言ったらしく

 

母は「(わたしが選んだ)それよりこっちの方がいいよね?」

 

と圧をかけた。

 

「うん!」(ううん、違うの。それじゃない)

 

母に逆らえないことを知っていたわたしは

 

自分の本当の気持ちを『なかったことにする』というワザを


すでに身につけていた。

 

積極的なふりをする消極的な性格が完成していた。

 

 

専門科目の授業は週一回(だったと思う)

 

わたしはいつの間にか記号を覚えオルガンを弾き、

 

楽譜が読めるようになっていた。

 

専門科目担当の先生に褒められて

 

調子に乗った母は父と相談して

 

というよりほぼ強制的に

 

ピアノを購入した。

 

 

そして、ある日突然

 

黒くて艶のある存在感半端ない物体が長屋に運ばれてきた。

 

わたしは恐る恐る真っ白な鍵盤に触れた。

 

オルガンとは全然違う感触に圧倒された。

 

ピアノが来るまでそこにあった二段ベッドは

 

部屋の反対側に移り、

 

追いやられたように見えた。

 

 

その日からピアノとの付き合いは16歳まで続いた。

 

本心は自分がやりたいからではなく

 

『お母さんが喜ぶから』。

 

それでもピアノは嫌いではなかった。

 

特に好きというほどでもなかったが、好きなフリをした。

 

―事なかれ主義―

 

この頃に形成された性格が後々わたしを苦しめ

 

長きにわたり悩むこととなる。

 

 

次回は、

 

~母はデザイナー~

 

をお伝えします。

 

 

 


4歳になる年の春

自宅である長屋から

徒歩30分ほどのところにある

市内の私立幼稚園にバス通園することになる。


どんな気持ちで通っていたかは覚えていないが、

見送りの母と『怪獣』である妹と離れる時に

泣いた記憶はない。

車内での記憶は

『のんくん』(…だったと思う)という男の子が

気になっていた、おませなわたし。


4歳児、初めての社会経験はばら組から始まった。

担任の先生はとてもかわいくて

おしゃれな先生だったので

大好きだった。

今思い出すと、

おそらく初めて

憧れという気持ちを抱いた

と同時に女性を意識した

多感な年少児。


その先生は

若かりし頃の由美かおる(ご存じでしょうか…)

によく似た、少しグラマラスな

ちょっとエロい感じ。



何人かの男の子にちやほやされていたせいで

ちょいカワの自覚があったわたしは

クラスの気になる男の子に

馴れ馴れしくちょっかいをだし、

グラマラス先生に対抗意識を燃やしながら

女子力に磨きをかけていった。


ばら組で沢山のことを学び

家に帰ると『怪獣』と戦う

頑張る園児だったのだ。


次回は、

~生まれて初めての傷心~

をお伝えします。
 

両親が自分たちの理想とする家族の

長女としてこの世に生まれたわたし。

長屋に住む姫は可愛い服にくるまれて

祖父母たちにも長屋住人たちにも

可愛がられて2年が過ぎた。

3歳になる年の冬

ヤツは突然やってきた。


無愛想なのに

周りの大人たちの視線を一身に受けて

ちやほやされている。

なんやこいつは…


遠い記憶の中の思い出は

積み木で箱庭とお城を作り

満足げに母に褒めてもらおうと

した瞬間、

ヤツが突進してきて

お城は瓦礫の如く無残な形となり

泣き叫ぶわたしをよそに

ヤツを抱き上げた母

ヤツはこの日から

「わたしの全てを奪う怪獣」

となった。


わたしと怪獣は幾度となく

激しい戦いを繰り広げながら

すくすく成長し

それぞれのディープな個性が

育まれていくことになる。


次回は、

~姫、幼稚園に通う~

をお伝えします。
大阪府守口市の長屋に新居を構えた

20代後半の父と20代前半の母の

第一子として誕生したわたし。


当時は“産婆さん”と言われていた

大石産婦人科で

午前3時に産声を上げる。

体重4350g
身長51㎝

まあまあ大きめベビーだが

股関節が開かない、
発育性股関節形成不全

放っておくと歩行異常になるため

母は退院した翌日から

このあたりで知らない人はいない(と思う)

関西医科大学附属病院という大病院に

毎日通うことになる。


わたしは夏生まれなので

暑い日も雨の日も、

朝食を作り父を送り出して、

家事を済ませてから

わたしを背中におんぶして

電車で通院していた。

生まれたときから

手がかかる子だったらしい。


子供の時に両親から聞いた話を

思い出したら

感謝しかない…^^;


もうそろそろ90歳になる父。

文句の多い父に60年連れ添った母。


いつかお別れしなければならないその日まで

感謝を伝えて大事にしていこう。


…と思うだけで凄い親孝行を

した気分になった。


次回は、

~ライバルの出現~

をお伝えします。