最近、といってもけっこう前からだけど、駅やお店で流れるアナウンスで、「体の不自由なお客様」の『不自由』のアクセントが気になってました。


どこでもみんな当たり前のように、『自』にアクセントが付いてるんだけど、違わない?

アクセントは『不』につくんだと思うんだけど。


ただ、そういう公的(?)なところのアナウンスで全部そうなってるから、現代ではそれが正しいのかもしれないけど。



『不』にアクセントをつけた言い方の方が耳に馴染んでいる私(生まれは神奈川県、両親ともに神奈川県出身、この20年ほどは埼玉県在住)からすると、『不自由』なことを強調されているかのように感じられて、そうは見えなくても足の不自由な私からすると、あまりよい気持ちにはなれないんだけど。


こうもまことしやかに『自』にアクセントを置く言い方が浸透していると、変わったというか、意図的に変えられたのかな?という気もしています。


調べたわけではないので、あくまでも個人的な推測だけど、例えば『自』にアクセントを置いた方が聞き取りやすいとか。


その言い方しているの、そういう公的な場所なことを考えると、『伝える』ことが目的であり、『伝わりやすさ』を優先した結果そうなった、とかね。


それとも、私には逆に『不自由』を強調しているように聞こえてしまうけど、『自由』を強調する意図だったりするのかな?

『不自由』だと差別用語的な表現になるから、とか。



差別意識っていうのも、何をもって差別とするのかは、それを受け取る人の心次第だと思うんだけどね。

ぶっちゃけ気にしなければ気にならない、何事も。

でも、世の中私みたいに雑な(おおらかとも言う)人ばっかりじゃないから、配慮は必要なんだろうけども。


言葉は人が使うものだから、人の都合でどんどん変わっていく。


長くて言いづらいから略されたり、そんなの当たり前で。


意図的にせよ、自然発生的にせよ、時代とともに、人の心とともに。


まぁ、風の時代だし、今後そういうことがもっと当たり前にはなっていきそうかな。


何をもって正しいとするのか。

正しさなんて、立場で変わる。

つまり、多数派が正義とされることがほとんどだから。

何が正しいのか、なんてことを求めること自体が既に、時代遅れなのかもね。


上書きされて消えていく、言葉の本来の意味なんかを、少しさびしく思いつつ。


でも、規制されてるわけではないのでどちらを使うかはその人の自由。


『不』にアクセントを置く言い方が既に時代遅れであると言われようと、そんなことを指摘すること自体がナンセンス、ダサい、イケてない。


個々の自由が尊重される時代だからこそ、その違いを楽しみこそすれ、「自分こそが正しい!」と声高に叫ぶのは、ちょっと違うのかもしれない。


もちろん、違ったとしてもやっていけないわけじゃない。

それがその人の信念ならば、貫くのも『自由』。


自由だから何でもやっていいわけじゃないけど、自分で責任の取れる範囲で、意思として信念として持つことは、今はまだ禁じられてはいないのだから。