ー T side -
背中から感じる期待に満ちた恋人の熱い視線。
「構ってほしい」と言いたげに,穴が空くほど熱心にぼくを見つめている。
その視線に気づいてはいたけれど,ぼくには片付けなければならないものがあった。
古典の宿題。
「ちゃんと自力でやれよ。」
教室を出るとき,赤池くんにやんわり諭された。
来週は中間テストだ。
ギイに頼っていては,自分が後で泣きを見るのは明らかだから。
どんなに面倒でも自力で調べて,勉強するほうが頭には入る。
だから,ぼくは頑張るのだ。
必然的に待たせることになって,ギイには悪いけれど。
そんなギイは,ぼくを邪魔しないように気をつけているのか,何も話そうとはしない。
でも,ぼくから視線を外すこともない。
頬杖をついて少し首をかしげながら,ぼくの方を見つめている。
うーん。何だか落ち着かない・・・。
だからぼくは,彼に声をかけておくことにした。
「ねえ。ギイ・・・。」
「ん?何だ?」
頬杖をついたまま,きらきらと目を輝かせながら嬉々として反応するギイ。
う・・・嬉しそうだね・・・。
「お腹すいたのなら,先に学食に行ってていいからね。」
ギイのブラックホールの胃袋を待たせなくてすむということ,さらに彼が先に学食に行ってくれれば,ぼくは,恋人の視線にどぎまぎしたりせず,落ち着いて宿題に専念できるわけで
これは一石二鳥,我ながら良い考えだと思いながら提案したのだけれど
恋人には,いたく不評だったらしい。
あからさまに落胆したような眸で,ぼくを見ている。
ちょっと心は痛んだのだけれど,宿題をする時間は永遠にあるわけじゃない。
ぼくは,気持ちを切り替えてノートに目を落とした。
本気モードに突入する。
古典の辞書と首っ引きで,古文を現代文に訳していく。
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に
ふーん。
伊勢物語って,幼馴染の男女の恋の話なのか・・・。
幼馴染のふたりは,大人になって結ばれるけど
暮らしが貧しくなると男は愛人の下に通うようになって
でも,妻は愚痴一つ言わず,愛人のもとに通う夫の身を案じ続ける・・・・。
こんな話だったのか・・・。
なんだか,切ないなあ。
ひとつの課題を何とかクリアし,一息ついた。
すると,頭を使いすぎたのか少し空腹を感じる。
でも,あと一息なんだよなあ。
ここで一気に終わらせてしまいたい。
ぼくが,ふと横を見るとギイのベッドのヘッドボードに,かわいらしい藤製のミニバスケットが載っているのを見つけた。
あの中には,確か・・・。
「あの・・さ,ギイ。」
「ん?」
小さな声で呼びかけてみる。
「何?託生。」
「そこにあるキャンディもらってもいいかい?」
「キャンディ?」
確か,ギイがさっき奈良先輩からキャンディをもらったって中に入れているのを見たんだ。
「いいけど。腹減ってるなら,購買で何か買ってきてやろうか?」
恋人のありがたい申し出だが,ぼくは自重した。
「うーん。でも今,身になるもの食べたら夕食入んないし。」
現在,夕方の5時。
今,ヘビーなものを口に入れたら,きっと夕食の半分(野菜は確実に全て)を残すことになるだろう。
「なら,やっぱ先に飯食いに行くか?」
この申し出も魅力的だったが,やはり断った。
「食べると,きっと眠くなっちゃって勉強にならないと思うんだ。」
そう。ぼくは,この頃食事を取ると必然的に眠気に襲われる。
先にお風呂を使わせてもらい,その後ギイが入っている間,「待ってろよ」と言われても
約5割の確率で夢の世界へと飛んでしまう。
「恋人がいのない奴。」
とギイに恨み言を言われたのは,十本の手の指に足の指も何本か入れねばならないぐらいにはあるのだ。
「あと,どれくらいで終わりそうなんだ?」
キャンディを手渡しながらギイが尋ねてくる。
「うーん。30分はかからないと思うんだけど・・・。」
それまでには何とかしたい。
「そっか。」
ギイは,静かに微笑んだ。
彼は,ベッドに戻ると英字の経済雑誌を広げて読み始めた。
相変わらず,ぼくには全く理解できないような難しい文章を熱心に読み進めている。
それを見届けると,自分の作業へと戻り,もうひとつの提示された課題に向き合う。
「あ,間違えた。」
ミスなく順調にとは行かないが,その都度ぼくのお気に入りの消しゴムが登場し
ノートの上を真っさらな状態に綺麗に掃除していく。
それだけでも,気分がすっきりとして新たに頑張ろうという気持ちになれる。
伊勢物語の現代訳が一段落した。
残すは,万葉集の和歌の解釈のみだ。
ぼくは,持っていた鉛筆から手を離すと,キャンディに手を伸ばした。
その薄い皮を剥くと,カサカサと乾いた音がして,白くまあるい形が現れた。
出てきた物体を迷わずぽんと口の中に放り込む。
甘く爽やかなミルクの味が口いっぱいに広がった。
糖分を少し取ると,頭がしゃきっとするけれど
今のぼくがそれだった。
よーし,がんばるぞー!
待ってくれているギイのためにも,あと10分で終わらせるんだ。
もう一度気合を入れて,再び宿題と向き合う。
10月ともなると,夜の帳が下りる時間も徐々に早まり,もう窓の外は暗くなりつつあった。
気温も急激に下がってきている。
けれど,二人で過ごすこの部屋は居心地がよく,さらに恋人が身近に存在することが
ぼくの心を温かくしていて,それほどまでの寒さは感じなかった。
ある意味で,リラックスしていたのである。
そう。ぼくは,宿題に集中しながら背後に全く無防備な状態を晒していたのだ。
一言で言ってしまえば油断したのである。
ふと,背中に温かな体温を感じた。
あれ?と不審に思う間もなく・・・
ぺろん
何かひんやりとした肉厚のものが,右頬を舐めた。
ぞわっ!
その感触に,背筋を悪寒が走り,ぼくは飛び上がった。
「うっ,うわあああ。」
見事に自分の椅子からひっくり返り,したたか腰をぶつけてしまった。
こんなことをするのはっ・・・・。
「ギイっっ!!なっ・・・何するんだよっ・・・。」
「あ・・すまん。あんまりうまそうだったもんで・・・つい。」
ギイはぼくの驚きようにびっくりしたのか,すまなそうに謝ってきた。
「ギイってば,そんなにお腹が減ってたの?先に学食行っていいって言ったのに・・・。」
ギイは,ばつが悪そうにぼくを見ている。
「だってもうすぐ終わるんだろ?だったらお前と一緒に行きたいじゃん。」
拗ねた子どものような眸がぼくを見つめていた。
全く,これが将来を嘱望されるFグループ御曹子の真の姿とは・・・・・。
ぼくは,小さく溜息をついた。
「だからって,不意打ちはやめてよねっ。心臓が止まるかと思った。」
そんなぼくの心の中を知ってか知らずか,彼はあっけらかんと,こうのたまった。
「じゃ,予告したならいいのか?」
あんまりな言葉に,ぼくは仰け反りそうになった。
「そうじゃなくって!!」
ぼくは,ギイを黙らせることにした。
口で彼に勝つことは,これから先一度たりともチャンスはないだろう。
こちらの旗色が悪いときは,物理的に黙らせてしまうに限る。
ぼくは,口の中から半分になってしまったミルクキャンディを取り出す。
食べさしだけど,まさか文句は言うまいね!
「はい!口開けてっ!!」
「は?」
素直に大きく開けられた口の中に,食べさしのミルクキャンディが吸い込まれていく。
「あとちょっとだから,それで我慢しててよね。大人しくしててねっ!」
文句言ったら,ぼくは泣くぞ!
ギイは,一瞬呆気に取られたように佇んでいたのだけど,やがて幸せそうににっこり笑い
自分のベッドにごろんと寝転んだ。
そのまま半分になったミルクキャンディを口の中でころころ転がし,恐ろしいくらいに静かになった。
よし。これで,宿題を仕上げるんだ。
ぼくは耳まで真っ赤になりながら,自分の机へよろよろと戻り,再びノートを開く。
背後で,ギイが何を想い描いているのか予測もつかないぼくは,そのまま宿題に没頭する。
ギイに提示したタイムリミットまで,あと6分。
がんばれ。ぼく。
FIN
※ギイのイメージが崩れちゃうかもしれませんね。ごめんなさい。(><)こんなに浮かれたギイでも許していただけますか?