「あれ?」

目を覚ますと,そこは夕暮れ迫る寮の一室。

ここ,ぼくの部屋じゃない・・・。

だって,隣にあるはずの三洲くんのベッドがないんだもの。

でも,ぼくはこの部屋を知っている。

天井の木目の模様。

それに,このシーツの匂い。

途端にぱっと飛び起きる。

ギイのゼロ番!?  なんで・・・?

その時,天井が勢いよくぐるりと回った。

「うわっ・・・。」

ぼくは,寝かされていたギイのベッドから見事に転げ落ちてしまった。

い・・・いたい。

したたか腰を打ち,涙目になったぼくは,奇妙なことに気がついた。

起き上がった自分の目線が,とんでもなく低い場所にある。

当然見えるべきベッドの上面が全く見えないのだ。

慌てて立ち上がっても,ぼくの顔はベッドの上を覗き込むことすらできない。

な・・・なんで・・・?

慌ててベッドに手をついた。

その手を見て,ぼくは現実を思い出す。

ビロードのようなふさふさとしたグレーの毛に包まれた前足。

そうだ・・・。ぼく今猫になってたんだっけ。


ぱたり。

ぼくは,そのまま力なく床にぺったりと座り込んでしまった。

ようやく,非現実的な現実が自分の胸に重く圧し掛かってきた。

 たまらなく不安になり,あたりを慌てて見回してみる。


ギイ・・・どこ?

しんとしたギイのゼロ番。

そこに,ギイの姿はない。


「・・・・ギイ。・・・・ギイ。」

ぼくは,小さな声で呼びながらギイの姿を求めて室内を歩いて回る。

この声も,きっとギイには猫の鳴き声にしか聞こえないんだろうなあ。

真行寺がそうであったように。



ギイは,部屋にいないようだった。

ゆっくりと西の空に赤い夕日が落ちていく。

だんだんと薄暗くなる部屋で,ぼくは途方にくれていた。


「こんなになっちゃって,どうすればいいんだろう・・・。」

部屋と廊下を隔てる大きな木製の扉の前に座り込み

ギイの足音が響いてくるのを,今か今かと待ち侘びていた。



しばらくすると,階下からさざめくような話し声や足音が響いてきた。

早めの夕食を取り終えた学生達だろう。

この3階のフロアにもいくつかの足音が行き交い,

あちこちのドアが開いては閉まる乾いた音が聞こえてきた。

やがて,このゼロ番にもコツコツといくつかの足音が近づいてきた。

ぼくは,ぴんと耳を立て体中に緊張感を漲らせる。

これ?ギイの足音・・・?

ゼロ番の扉の前で,足音がぴたりと止まる。

そして,カチリと開錠する音。


『ギイだっ!帰ってきたっ!』


ぼくは,瞳を輝かせ大急ぎでドアの前に駆け寄った。

のはよかったのだが・・・・・・。


『フギャッ!!』


ぼくが駆け寄ったのと同時に,勢いよく重い木製の扉が開かれ

-  しまった・・・。祠堂のドアって内開きだったっけ・・・。 -

もろに扉に激突したぼくは,鞠のようにころころと床の上を転がっていた。


「託生っ。」

ギイが,慌てて半分目を回しているぼくを抱き上げると

大きな掌で優しく撫でてくれた。


「葉山,悪い。大丈夫か?」

横から章三が覗き込み,心配そうに声をかける。

そっか。扉を開けたのは,赤池君だったんだね。鼻が潰れるかと思ったよ。

まだくらくらする頭で,涙目になりながら彼を上目遣いに睨み上げる。

でも,猫だから・・・(猫じゃなくてもか・・・?)全く迫力はないようだ。

章三は,ぼくの恨みがましい視線に怯むことなど無い。


「全く,猫になっても葉山はとろいんだなあ。扉がどっちから開くかなんて,分かりきっているだろう。ドジ!」

「うっ・・・。ひどいよ。赤池君。痛い目にあったぼくに更に追い討ちをかけることないじゃないかっ!!」


「わかった。わかった。そう怒るな。僕が悪かったって。」

章三の笑いを含んだ謝罪の言葉に,ちょっぴり腹ただしくなったぼくは

猫パンチをポスポスと彼の胸にお見舞いしながら,叫んでしまっていた。

「悪いなんて,これっぽっちも思ってないくせにっ!」

「おいおい,二人ともよせって。」

ギイが堪りかねたのか,割って入ってきた。


「託生,こぶができてるぞ。冷やしてやるからこっち向いて。」

「くすん。」

って,あれ?ここまできて気がついた。

3人の会話がなぜか成立している。

ぼくは,猫の言葉を話しているはずなのに・・・。

しかも,章三はぼくのこの異様な姿を見てもパニックを起こすことも無い。

なんで???


きょとんとしているぼくの手をギイは優しく取ると,

大好きなブラウンの温かい瞳でゆっくりと顔を覗き込む。


「オレ達がおまえの言葉理解してるのは分かるよな。」

黙って頷いた。


「他のやつら・・たとえば真行寺たちには,おまえの声は鳴き声にしか聞こえないらしい。でも,オレはおまえの話している事がなぜか分かるんだ。」

恋人だからかな?とギイがくすりと笑う。

そうだね。ギイならきっと見詰め合っただけで,ぼくの心の中を推し当ててしまうだろう。

でも,章三はなぜわかるのかな?

章三をまじまじと見る。

章三は,少し複雑そうな顔をしていたが,やがてぽつりと呟く。


「不本意ながら,3年になってからの僕は,葉山の保護者だからな。」

ぷっとギイが小さく笑う。

「託生の心の母だもんな。」

「母はやめろ。母は!せめて,父にしてくれ。」

「どっちでも同じだろうが。」

「同じじゃないっ!」

「あ,あのー。」



2人の掛け合いに割って入ろうとした途端,

ぼくのお腹が,ぐううううと盛大に鳴いた。


「あ・・・・。」


思わず赤面。夕食まだだったんだ。ぼく・・・。


「腹減ったろ?託生。」

ぼくのおでこに小さく切った冷却シートを張ると,ギイは優しく微笑んだ。


「やっぱりあれか?猫ってことは,キャットフードとか生魚とかになるのか?」

「なななな,なんだよ。それ。」

「葉山の夕飯のことだよ。」

章三は,にやりと笑いながら引きつっているぼくの顔を覗き込む。

くすん。意地悪だ・・・。相変わらず。


「そんなの・・・食べれない・・・。」

消え入りそうな声のぼくに


「おい,章三。あんまり苛めてくれるなよ。」

ギイが不機嫌そうに章三を嗜めた。


「ほら,今日の夕飯。託生の好きなカニクリームコロッケ定食だったから,おまえの分,詰めてもらってきたぞ。」


小さなタッパーに詰め込まれたミニサイズの定食。

体の小さいぼくに合わせてくれたんだね。

ギイの愛が嬉しい。

色とりどりのおかずとご飯がぼくの食欲をそそる。

タッパーの蓋を取り,サイドテーブルの上に乗せると,ぼくの体もその上に乗せてくれた。


「冷めないうちに召し上がれ。」

ぼくは,タッパーの前にちょこんと正座すると,ギイを仰ぎ見て

「いただきます。」

と手を合わせた。

そして,かつかつと食べ始める。

肉球のあるこの前足じゃあ,おはしやスプーンを使うことはできないから

口に直接食べ物を含むしかない。

ちょっと恥ずかしいけれど,お腹の減っているぼくは夢中でご飯を頬張った。

  

3分の2ほど食べ終わったところで,ようやくお腹が落ち着いた。

その時初めて,周りを見る余裕ができて気がついた。

ベッドの端に座ったギイと章三が,じっとぼくの食べる様子を微笑みながら眺めている。

 

ギイはぼくと目が合うとにっこりする。


「うまいか?託生。」

「葉山,おまえってうまそうに食べるなあ。」

「み,見てたの?ずっと・・・。」

ぼくは,どっと赤面してしまった。

あまり行儀のよくない食べ方で,しかも欠食児童のように一心不乱に食べるさまなど,恋人や親しい友人にあまり見られたくはなかった。

視線が気になると,残りの3分の1を食べる気力が萎えてしまう。


「お願いがあるんですけど・・・。」

「何?」

「あまり,見ないでほしい。」

「なんで?」

「気になって,ご飯が喉を通らないよ。」

「ああ,猫って人に見られるの苦手だもんな。」


章三が言う。  そうなの???


「仕方ないな。章三。オレ達は,あっちでコーヒーでも飲んでいるか。」

「ああ。」

「託生,ゆっくり食べろよ。」


ふたりは,ぼくに手をふると部屋中央の応接セットのほうへと移動していった。

なんだかありがたいけど,申し訳ないような気持ちになってしまった。ううううう。




しばらくすると,バニラマカダミアの甘い香りが部屋の奥まで漂ってきた。

ぼくも,ギイの用意してくれたお弁当をきれいに食べ終わり

「ごちそうさまでした。」

と手を合わせた。
 

 

「託生,コーヒー飲むか?」

ソファのほうからギイの優しい声が響いてくる。

「うん。」

ぼくは,元気よく返事をして,サイドテーブルからベッドへ

そして床へと慎重に下りようとした・・・・・が,

「フギッ。」

やっぱり着地失敗。

おでこは打たなかったけど,派手に転んでしまったぼくに,慌ててギイが駆け寄ってくる。

    
「こら。無理するんじゃない。言えば下ろしてやるのに。また怪我するだろ。」

また,叱られてしまった。


「ごめん。ううう。」

何でこんなに鈍いんだろう?悲しくなってくる・・・・。

章三は,そんなぼくを見ないふりをしながら,くっくっと声を出さずに肩で笑っている。

相変わらず失礼だ。




「おや?託生。」

「え?」

「慌てて食べたんだな。顔にご飯粒ついてるぞ。」

「えっ?えっ?」

ぼくは,焦って手で顔を撫で回す。

「とれた?ギイ。」

「んー。まだ。」

「ど,どのへん?」

「とってやるから,ちょっと目をつぶって。」

ぼくは,言われたとおりおとなしく目を瞑った。

ふわりと暖かく柔らかいものがぼくの口唇を押し包んでくる。

「暖かい・・・。」

ぼくは,うっとりとして,そのままギイに体を預けてしまった。

「はい。とれた。」

ギイの唇が離れて,やっとぼくは騙されていたことに気づく。

「ギイッ。だ,騙したねっ。」

「ついてたんだって。」

全身真っ赤になって抗議するぼくに,ギイはくすくす笑って取り合わない。

「うそっ。絶対うそっ!!。」

「本当だって。」

ぼく,完全に遊ばれてる・・・。

むうっと膨れた頬を,ギイが愛しげにちょんちょんとつつく。

ぼくは,悔しくてギイの腕に抱かれながらもそっぽを向いた。




-   コツ  コツ    -


その時,ゼロ番の扉がノックされる。

瞬時に固まるぼく達。
 

 

「はい。」

素早く対応に出た章三だが,すぐにギイの元に戻ってきた。

ノックしたのは2年生だったようだ。

隣室の1年生とのトラブルに苦慮しているらしい。

ギイは,大きく溜息をついた。


「託生,すまないがベッドの中に隠れていてくれないか?なるべく早めに片付けるから。」

「僕も協力するから,解決はいつもより早いはずだよ。」

タッパーを片付けながら,章三がウィンクをしてよこした。


「うん。いいよ。気にしないで。」

ぼくも事態をすぐ悟り,ひとつ頷くとギイのベッドの中に素早く潜り込んだ。



扉の開く音がして,何人かの学生が室内へと入ってくる。

低い声での密談が始まった。何やら深刻な話のようだ。

階段長って,こんなふうに毎日いろいろなことに対応しなきゃならないんだ。

自分の時間なんか無いよね。ストレスも溜まるだろうな・・・ギイ。

ギイの香りのする毛布に包まれながら,僅かに漏れ聞こえてくる

ギイの声に耳を澄ませる。

それだけで,ぼくは十分幸せな気持ちになっていた。

こんな姿になってしまったんだけどね・・・・・。