目が覚めて初めてぼくが目にしたのは,ギイの憂いを帯びた表情だった。

「託生。気分は悪くないか?」

「ギイ・・・。」

まだぼんやりとした意識の中,なぜここに自分がいるのか・・・今まで何をしていたのかを思い出そうと記憶の糸を必死に手繰り寄せていると

「託生。」

彼の美しく長い指がぼくの額に伸ばされて

「ああっ・・。」

そのほんの微かに触れた指先の感触が,あの忌まわしい記憶を呼び起こした。


「いっ・・・!」

恋人のものではない少し冷えた指先が身体中を這っていた。

意識をなくした後,ぼくの身体はどんな扱いを受けたのだろう?

正体を失っていたとはいえ,恋人を裏切ってしまったのではないかという罪悪感と不安感がぼくの心を押し潰していく。

「あ・・・あ・・。」

愛するギイの手を咄嗟に振り払ってしまった自分の行為に呆然としながらも身体の震えを止めることができない。

背筋に悪寒が走り,喉にせりあがってくる物を感じる。

克服したはずの嫌悪症が復活していた。

大粒の涙が後から後からぱたぱたと零れ落ちる。

「ぼくは・・・ぼ・・・くは・・・。」

「託生。」

身体に触れられまいとベッドの上を壁の方へと逃げ,小さく縮こまるぼくをぎゅっと拳を握り唇を噛み締めながら見ていたギイは意を決したようにベッドへ這い上がってくると,何も言わず強く抱き締めた。

「いやああああ。」

頭を振って,逃れようと激しく抵抗するぼくをギイはより強く深く抱き締める。

「託生・・・託生・・・。」

それでも両腕を突っ張って離れようとするぼくを彼は優しく名前を呼びながら辛抱強くずっと抱き続けてくれた。




どれくらいの時が経ったのだろう。



泣きながら腕の中で暴れ続け,やがて疲れきった身体から力が抜けた時

ギイはゆっくりその身をはがすと

「オレのこと・・・分かるよな?」

目を見ながら静かに尋ねてきた。

小さく頷きながらも,ぼくは俯くしかない。

意識がなかったとはいえ,恋人ではない人間と身体を重ねてしまったかもしれないのだ。

こんな事態を招いてしまった自分が不甲斐なくて,悲しくて悔しくて胸がきりきりと痛んだ。

「ごめ・・・ん・・・ギイ。」

「何が?」

「ぼ・・・・く・・・他の・・・・人と・・・。」

しゃくりあげながらも必至に紡いでいた,その先の言葉は突然掻き消された。

優しい花の香りがふわりと鼻腔を擽る。

気がつくと彼の広い胸に再び抱きこまれている自分がいた。

「大丈夫だよ。」

「え・・・・?」

「おまえは何もされていない。」

驚いて目を見張るぼくにギイは穏やかに微笑みを返す。







オレと一之瀬諒太郎が現場となったホテルの一室に足を踏み入れると,ベッドには深い寝息を立てて眠る恋人。

そのすぐ隣には下着姿の雪乃が寄り添って眠っていた。

託生の露わになった上半身の肩から腰にかけてのラインと,その背中に頬を寄せる雪乃の姿にカッと全身の血が上り,目の前が真っ赤に燃え上がったかのような感覚にとらわれる。

激しい怒りに体が震え,眩暈をも感じた。

すぐにも歩み寄ろうとするオレを,諒太郎の手が静かに遮った。


「どいてください。」

少々つっけんどんな声になってしまったのはいたしかたないことだろう。

「そこで待っていてくれ。オレがいく。」

有無を言わさぬ固い口調で冷静に言い置くとベッドへつかつかと歩み寄った。

物音にはっと身を起こした雪乃は,諒太郎の姿を認めると,なぜかほっとしたような表情を見せた。

そこに感じる大きな違和感。

普通,夫に他の男性との情事らしき場面を見られたならば,もっとおどおどしたり泣き伏したり
さもなくば,開き直ってふてぶてしく居直ったりするものだろう。

だが,彼女はそのどれでもなかった。

オレ達がこの部屋に踏み入れてくることをずっと待っていたかのような印象すら覚える。

落ち着いた様子で,近づいていく諒太郎の眸をじっと見つめ続けている。


「雪乃。」

諒太郎は雪乃のすぐ目の前に立つと,無表情のまま自分の掌を振り下ろした。

パンッと乾いた音が部屋に響き渡り,雪乃は自分の頬を手で抑えて俯いた。

「あと五分で支度をしてくるんだ。いいね。」

そのまま諒太郎は踵を返した。

シンとした部屋には,オレと雪乃,それに眠る託生の三人が残された。

雪乃はじっとしたまま動かない。

オレも彼女を凝視したまま,ドアの入り口で黙って突っ立っていた。



長い沈黙を破ったのは雪乃だった。

「・・・・・眠っているだけよ。彼の身体には何もしていないわ。」

「・・・・。」

「行為したように見せかけるためのセッティングだけはするのよ。」

淡々と語る雪乃の人形のような横顔を見つめる。



この女性は一体何を考えているのだろう?
     
黙っているオレには構わず彼女は続けた。


「いつもそう。導入の段階で相手に薬を与えて・・・翌朝にはみんな首を捻りながら帰っていくのよ。」

「なっ・・・。」

「大丈夫。葉山に薬は使ってないわ。」


怒鳴りかけたオレにピシリと言い放つと雪乃は手早く身なりを整え始めた。

「眠りを誘う東南アジアの香草を焚き染めただけ・・・。」

「・・・。」



「ジェフリーは,結構前から葉山に目をつけていたようだわ。エマを利用して,私にバイオリンを弾ける子を紹介させようとしたり,何だか変だと思ったのよね。」

自嘲気味に言いながら微笑む彼女の心が見えない。

「このパーティに葉山が来ているなんて全く考えてもみなかったの。彼が目の前に突然現れた時は,驚いてしまって・・・どうしようかと思ったわ。だって,このパーティの主催者はオコナー会長夫人よ。ジェフリーが会場にいることはわかりきっていることだし。そこに葉山がいると彼に分かったら,飛んで火にいる夏の虫じゃない。」

「ジェフリー・オコナー・・・ね。」

「あなたも彼のことは知っているでしょう?この世界では有名ですものね。」

言いながら雪乃は形のよい唇の端を微かに歪めた。

オコナー会長夫人の三男坊,ジェフリー・オコナーはオレ達の世界ではかなり名の知れた男だった。



当然,悪い意味でだが。


「私がこの世界に入った時も,彼はすぐ近づいてきたわ。親切面してね。まあ私にとっては好都合だったけど・・・・。」

最後の方は,小さく独り言のように呟かれただけで,オレの耳にははっきりとは届かなかった。



ジェフリーの異性を見るギラギラと欲望に満ちた視線を思い起こす。

彼や取り巻きの男達に目をつけられて多くの女性や少年少女がその毒牙に掛かったと聞く。

由緒正しい家柄の見目麗しく紳士然とした若い男性から声をかけられれば,それだけでシンデレラストーリーを夢見る女性達は舞い上がってしまうものだ。

初めは優しくエスコートしているのだが,やがては薬を盛られ言葉巧みに部屋へと連れ込まれる。

心も身体も傷つけられ,人には言えない写真を取られたあげく,それをネタにいやいや言いなりになったり,泣き寝入りする女性は後を絶たない。

「でも,彼女達はある程度それを承知でついてくるのよ。この華やかな世界には危険がつき物だってことを知っていてね。でも,困ったことに彼女達は自分だけは,その危険な目には遭うわけがないと思っているのよ。自分だけはシンデレラになれると信じているの。なんて愚かなのかしら。」

皮肉めいた笑みを零す彼女の横顔は蝋人形のように冷たく白い。

「あんたは,そんなことにはならないとでも?」

「私は・・・彼の弱みを握っているもの。彼は私に手を出すことはできないのよ。」


オレの方に視線を移すと,ひっそりと笑う。

「彼が葉山に興味を持っているらしいことには気づいていたわ。だから,それとなく注意はしていたんだけど。公的なパーティにでることもないし,あなたも進んで連れては来ないから接点がないと油断していたのが間違いだったわ。あなたには,どんな小さなことでも相談するものと思っていたから・・・。」

 
痛いところをつかれたオレは僅かに顔を顰めた。。

 

このところ忙しくて託生と話ができていない。

きっとこのパーティについても相談したいと思っていたに違いないのだ。

オレもわかっていたなら,事前に警護を手配していただろう。



ジェフリー・オコナーと託生の接点といえば・・・

考えられるのは,あれか。

自分に関係する公のパーティに託生を連れて行くことなどまずない。

私的なパーティも人見知りする恋人の性格を慮って,本当に親しいメンバーのみの内輪でのものか,託生にとって必要であると判断したもののみの出席なので,NYに来てからパーティと名のつくものに出たとすれば,それは三回ほどだ。

そのうちの一つ。あれは,エリオット教授に招かれた席だった。

内輪ながらも音楽関係者が揃ったパーティ。

託生をはじめ何人かのジュリアードの学生達も招待され,教授に請われていくつかのクラシック曲を演奏した。

あいつは緊張に頬を染めつつ,バイオリンを奏でていたっけ。

その会場にオコナー会長夫人がいたはずだ。

彼女の姪っ子がウィーンに音楽留学していると聞いたことがある。

おれの目には触れなかったが,あの時ジェフリーを伴って来ていたのだろう。

そこで目をつけられたのか・・・・・。


      

「悪かったと思っているわ。こんなことに巻き込んでしまって。もう二度と葉山には会わないわ。
申し訳なかったと伝えてください。」


深々と頭を下げると,この部屋を彼女は出て行った。

それが三時間ほど前のこと。







「おまえは彼女達の火遊びに巻き込まれただけだよ。」

「先輩の?」

「ああ。」

上流階級の人間には多くの誘惑が付きまとう。

金があればあるだけ,権力があればあるだけ,様々な人間が次々とたむろってくる。

酒・麻薬・女・SEX,華やかで煌びやかな世界の裏にはどす黒い影が常に渦巻いている。


オコナー会長夫人の三男坊ジェフリーは,この世界では名の知れたどら息子だ。

取り巻き達に囲まれ,夜毎ドラッグと酒・女に溺れる乱痴気騒ぎ。

たとえ何か問題を起こしたとしても親が必ず揉み消してくれるのだから。

その品行が直ろうはずもない。




だが,今回ばかりは許さない。

オレの託生に手を出そうとしやがった。



エリオット教授のパーティでは心配で,常に恋人をオレの側から手離さなかった。

奴はそれを見取って,隙あらばちょっかい出そうと虎視眈々と機会を狙っていたらしい。

雪乃は,身を挺してそれを防いだということになるのだろうが。



だが・・・・。

「絶対に許さない。」

「ギイ?」

無意識に零してしまった言葉に託生は敏感に反応し大きく目を見開いた。

恋人をこんな目に合わせたどら息子には新たな制裁を加えてやる。

奴を社会的に抹殺することなど今のオレにはわけない事だ。

まあ多少陰険な手を使うことにはなるだろうが・・・な。


それに,託生が先輩と慕う雪乃も許せなかった。

諒太郎の妻でありながら火遊びに身を窶す彼女の考えが理解できない。

悪い仲間に無理やり誘われているというよりも,自分からすすんで火に飛び込んでいるように思えるのだ。

託生が運悪く間接的に巻き込まれたのだと分かってはいても,感情は納得できなかった。




オレはきっと厳しい表情をしていたに違いない。

託生の眸が不安そうに揺れている。


「許さないって先輩のこと?」

「違うよ。」

オレは託生をゆっくりと抱き締める。


「ギイ?」

「おまえは何も心配しなくていい。」

「でも・・。」

「無事でよかったよ。」



柔らかな頬を両手で包み口唇を重ねると託生も安心したようにオレの背中に手を回しゆっくりとその瞼を閉じた。







やがて一之瀬諒太郎から二人が協議離婚したとの短いメールが届いた。

一ヵ月後の寒い冬の朝のことだった。