あの日
「お話があります。」
そう切り出したキャロライン・ムアの顔は,仄かに青白く思い詰めた表情だったと思う。
「家に帰ります。送っていただけますでしょうか。」
ベンは,少し驚いたものの,
「それでいいのか?」
と,一応確認した。
「ええ。」
「あんたの家は?」
「あなたはご存知ですよね。」
ムア家の娘だということを
彼女は無言のまま目で語りかける。
ベンは,溜息を一つつくと
「実家は,Park Avenue でよかったな?」
と投げかける。
「あ,いえ,祖父の家にお願いします。」
「ムア卿の邸宅か?」
「はい。」
ジャスティン・ムアは,第一線を退いているため,居住地はマンハッタンではなく郊外になる。
「おじいさまと話をするつもりです。」
「わかった。」
キャロライン・ムアは賢い。
ムア家を統括するのは自分の父親ではなく,引退しているとはいえ絶大な権力を持つ祖父であることをよく理解している。
崎家と決着をつけるには,なによりも祖父の力が必要だ。
「行ってきなさい。」
その一言に,キャロライン・ムアの顔に笑みが広がる。
「ありがとうございます。」
ベンは,その日のうちにムア卿の邸宅へと彼女を送り届けた。
車を降りベンに軽く会釈をすると,キャロラインは車椅子のまま邸宅の玄関へと続くアプローチを進んでいく。
重厚なドアが開かれると,その姿はベンの視界から消えた。
その際,彼女は一度もふり返らなかった。
しかし・・・3日で帰ってくるとは思わなかったな・・・
「何ですの?」
怪訝な顔をするキャロライン・ムアに,ベンは苦笑で返した。
あの日,彼女が帰ってしまったと知るや,アリスは寂しがって自室にこもってしまった。
きっと泣いているに違いない。
だが,これも本来あるべき場所へ彼女は帰ったのだから,これはこれでよいと考えるべきだと,ベンは思ったものだ。
しかし,それから3日後
キャロライン・ムアが,再びベンの前へと現れた。
自身の身の回りものだけを持って
そして,開口一番
「あの,アレックスのことなのですが・・・」
「あ?」
ベンは呆気にとられた。
本来あるべき居場所へ戻したと思っていた女性が,すぐ舞い戻ってきただけでも十分驚くべきことなのに
その第一声が,その行動の理由ではなく,アレックス?
「あの・・・何か怒っていますか?」
「いや・・・」
頭が痛くなってくる・・・が,とりあえず話を聞かなければ何も分からないではないか。
「アレックスがどうした?」
ベンが会話に戻ってきたと理解したキャロラインは,頬を紅潮させながら,話し始める。
「アンソニー・ローデンをご存知ですか?」
勿論知っている。
いや,ここNYで知らない者はいないのではないか?
アンソニー・ローデンは,今,最も著名なモダンバレエダンサーだ。
「彼が,アレックスに一度会いたいと言っています。」
「え?」
会ってどうする?
「アレックスは,耳が聞こえないんだぞ。」
「・・・ええ。」
「わかっていて,どうするっていうんだ。」
「ローデン氏は,バレエの指導も行っています。」
「だから?」
ベンは,怒りがこみ上げてくるのをやっとのことで押さえている。
耳の障害は,ダンサーにとって大きなマイナスだ。
そんな難しい者を好んで指導したがる酔狂な人間がいるとは思えない。
「期待を持たせた上で,そこで梯子を外されることほど残酷なことはない。」
「ベン」
キャロラインの静かな瞳がベンを射貫く。
「決めるのは,アレックスです。」
「なっ・・・」
「なぜ,障害があるとプロのダンサーにはなれないと決めつけるのですか?」
「それは・・・」
「アンソニー・ローデンは,視覚障害のあるダンサーも指導しています。また,アンソニー・ローデン自身も片耳が聞こえません。」
ベンは動きを止めた。
「そう・・・なのか?」
「はい。でもこれは,トップシークレットですので他言無用に願います。」
キャロライン・ムアの目は真剣だ。
知らなかった・・・な・・
「わたしも,そこまでは知りませんでした。祖父から得た情報です。アンソニー・ローデンには,祖父を通してコンタクトを取りました。」
「なぜ,そこまでする?」
アレックスは,彼女にとっては赤の他人だ。
この館で少し交流しただけの関係に過ぎない。
キャロラインがそこまでする意図は何なのか,ベンは図りかねていた。
「それは・・・」
キャロラインは,ふと口籠もった。
「彼のダンスを初めて見たとき,その才能が希有なものだと確信していたからです。」
「それだけか?」
ベンの問いかけに,彼女は再び口をつぐんだ。
二人の間に,小さな沈黙が流れていく。
やがて,彼女はその沈黙を破るべくその重い口を開いた。
「わたしは,物心がついたときから,『ムア家の娘』でした。」

