心の問題は健常者と呼ばれる人ほど見ないので、解決する場合障がい者が何とかしなければなりません。
目の前の一人一人の苦痛を取り除く以外に方法はあるのでしょうか?
障がい者の方が恐らく悩み苦しんできたと思うのに偏見で白い目で見られるのは僕は我慢できない

障がい者が幸せになるとしたら、誰一人取り残されること無く人が笑い合えることと僕は断言する。

呪いは呪いを呼び、捨てられた人の呪いがまた病気になるなら、病理が解決することがないならどうして、また自分達に降りかからないとなぜ言えるだろう。

親がそうなった理由を考察し、苛めをした人が二度とそんなことしないでも笑える世の中。

ぐうの音もでないほど完璧に問題を解決するとして、面の前の人の苦しみから取り除いていく以外方法はない。

僕は障がい者だから。人とは違い苦労して悩んだから。

人を救うと決めた。



(僕の両親は両親ともに昔気質で固定観念の強い人でした。高校まで必死に普通であろうと生きてきました。専門学校を中退するとともに人生の先行きも見えず、普通に生きることを捨てました。)

僕は生きようとは思いません。
私は生きることも死ぬことも自由です。なぜなら誰が何を言ったとか、世界がどうだとか関係なく最後に判断するのは僕だから。
僕が判断し僕が感じる。僕の目がなければ世界は見えません。
僕の鼻がなければ匂いはかげません。
僕があるから世界があり、僕がいないなら世界があろうとなかろうと関係もなければ、存在すらどうやって認知するのでしょう?
生まれてきたからには、自分が泣き笑い一瞬一瞬を真剣に生きたいと思います。
だから、僕は未来にとらわれすぎることなく自分の心のままに生きていきます。
世界は僕がいなくても回る。ただ、それは僕が頭で勝手に思っているだけなので。
だから、世界がどうだとか関係はなく、人は人を思い一人一人を大切にするべきだと思います。
今幸せでない人がどうして相手を幸せにできるのでしょうか?
未来のことも大切ですが、同じように今苦しい自分も存在していて、自分を許し認める心、今を幸せに生きる積み重ねに未来の幸せがあると思います。

僕が今悩むことに、仕事についてがあります。
働くことや日常生活、普通という固定概念を考えたときに、一つとして仕事は長く続けたほうが良いという常識があります。

でも、就労移行支援などの多くの支援を見た時に支援者はあくまで過去の自分と変わらなかったり、(実存と本質で考えるなら、)僕を見ているのではなく社会を見ています。

(普通の人で、普通に戻ることを目的とします。)

そのため、生きる意味も未来もないのに生きながらえるために生きる。
今を捨てて体調を顧みず、普通になることを目的にされてしまうことが多いです。
また、忙しそうにしている医者や、何年も前になりますが埼玉県で委託されている臨床心理士でさえ、社会のこうあるべきに縛られて、
(無理解で初対面で親を見て僕のことをお前のせいだ的に叱られたこともあり救いを求めて)あきらめたことはたくさんありました。

(働くことは必要なのですが、その意味が大切だと思います。)
欲求のピラミッドをご存じでしょうか?
もし、僕が引きこもったり何もしないでいたとして、生きていても死んでいても同じです。今、生活できて困らない以上、お金もなく困ることもない場合、どうして働く必要があるのでしょうか?
お金が欲しいと思うから働き、生きたいという希望が湧くから働くのだと思います。

だから、まず、ひきこもってた時無意識に、自分の生きる意味を考えます。
人生を考えたときに時間をただ無駄に使って苦しむだけで、だとしたら、死んだほうが楽という気持ちは自然だと思います。
生きる気がない人がどうして働くのでしょうか?

(一人、夜中に布団をかぶる中で、僕が僕の中での答えを出すことで周りが救われたり、ともに成長していく中でウィンウィンになれると思い、相手の役に立ち、僕自身も幸せを探すパワーをもらう(対等の立場で未来を築いていきたい)と思いました。)

何かをするというのは、しなければならないではなく、自分がやりたいという興味を持つことからすべては始まります。
自分の人生に意味を持たせる為に過去の経験を活かしピアサポート活動をするというのは、障がい者の自分にとって唯一残された自分が生きるための一つの道と思います。

(したいと思うようになりました。)

セカンドハンドストレスストレスという言葉があります。
イライラや負の感情は伝染し体調を崩すらしいです。
障がい者として、働く中で、人は障害のあるなしに関係なく、自分の経験や固定観念、相手とすれ違い、うまくいかないトラウマ、世界はこうあるべきという固定概念アンコンシャスバイアスに知らず知らずにとらわれ、相手を追い込み、病気にしているんだと思いました。
病気はそういった、社会構造からくる結果だと思います。

(障害のあるなし関係なく、自分の経験や固定観念、相手とすれ違い、うまくいかないトラウマが空気がアンコンシャスバイアスとしてその人をまとったり、周りの雰囲気によってループに入り永遠に人は変わらないということを知りました。)

そのため、過去に起こった病理は何ら解決されず、体調を崩すことは多いと思います。
精神障害は仕事が続かないということを聞いたことはありますでしょうか?精神障害は仕事が続かないということには意味があると思います。悪者にされ、仕事が続かないからと健常者も障がい者もループに入ります。そんな一方的な偏見が僕は嫌です。

職場でよい人は消えていくとよく言われるそうです。

(僕は固定観念によって(仕事はそこで続けなければいけないという言葉にとらわれて、)病んでしまうほどに)悩み苦しんできました。)

周りも職を転々としてたり、悩みながら一生懸命生きている。それでも相手を許す人たちもいるということを知った時に僕はこうあるべきという社会を自ら決めつけてきた。
嫌な人ばかりではないんだと知りました(衝撃を受けました)。
病気であろうがなかろうが、見えている世界なんて、あてにならないんだと知りました。

  ロゼト効果という言葉をご存じでしょうか?地域共同体を大切にする中で長生きにつながったという話があるそうです。  

一番必要なのはそれぞれの心の成長、余裕とこうあるべきや自己にとらわれない柔軟な心だと思います。
皆の心から無意識に行われる偏見をなくし、病気という概念をなくす事で、周りが幸せになり幸せのループを生み、相手に優しくするような共同体を作ることが病気をなくす幸せな社会だと僕は思います。
そのために、固定概念を捨てて相手の実存に寄り添うべきだと思います。

(仕事はどこも同じ。その一面とともに、でもやってみなければわからない一面をはらみます。答えをどちらにするにせよ、固定観念によって相手の成長の芽を摘むことは多いと思います。)
(就労移行支援も生きる意味や働く意味も分からないまま働かされ、結果同じ所に行く場合、問題は何も解決してないので、また体調を壊すことは多いと思います。)

社会で働く中で周りのイライラやちょっとした感情の変化、お互いの信じあわない心や社会は疑心暗鬼、こうだという固定観念を多く感じます。
社会がつらそうな顔をしあう原因として、精神病と同じ病理を抱えていてその人の精神的幼さからくると思います。
人の心の勉強をもっとするべきだと思います。
マイノリティーだから注意されるべきというわけではなく、相手は悪い意味では言っていないでしょう。
お互いの認識のずれやこうあるべきという差別によって、障がい者にこうあるべきという閉塞感を生み病気の連鎖を生んでいると思います。

自分の経験にとらわれず、相手に優しさを配れる。何かをするという行動の前に、行動をしようとする心が目の前に現われると思います。
(資格とか知識の前に心を整えることから始めてほしいと僕は思います。)
最善とは相手に気づかれず、(知識をひけらかさず)水のように下に行くといいます。
自分にとって合う職場を必死に悩みながら探す人もいて、こんなに優しい言葉をかける人がいることに気づいたいた時に障害とか関係なく、相手を思いやりあえればいいだと感じました。

(また、今後、引きこもりは資金の面でも、未来もなく自分のつきたいものにつける自由度も希望もないですが、せめて)

ただ僕がここにいるだけで、生きててよかったと思える、落ち着いた心持ちでいられる。そういった社会であってほしいです。
働くとは相手の役に立つ感謝の心だと思います。
優しくされたことに感謝し、相手のことを気遣うことが出来る。役に立ちたいと思える。
お互いにお互いを思いあえる。
地域同士がつながって引きこもりや体調の悪い人に勇気を出して大丈夫ですか?と声を掛け合えたり、病気という概念がなくても、お互いに一人の人間として分かり合える。
そんな地域になるために、相手の心を変え、お互いのつながりを大切にしていきたいです。

また、人は失敗もするし、転ぶこともあるので、再挑戦をすることができる環境、お互いに許しあって僕が自分なりに模索するそういった理解がある、制度が進んでほしいと思います。

(優しい人は消えていくというようなそんな優しい言葉を掛け合える社会であってほしいです。)(そのために、)

相手の心の成長、自分の心を見つめること、お互いに許しあえる共同体が広がるといいなと僕は思います。

最後に、支援者はよく死にそうな顔をして支援します。
何が相手の幸せかなんてわかりません。それを訴える病人にすらわからないのですから。
救えるとか、何かが出来るなんてことはおごりだと思います。
その人の望みが本当に言葉に表れているとは限らないです。
そもそも、支援員に求められることはあなたがあなたのままで隣にいること、相手をどうしようとか、日々のことに心を煩わされず、相手を認め受容する心しかないと思います。
人と心を通わせるにはまず自分から心のパンツを脱ぐそうです。無力な自分をあらわにすること。
自分からパンツを脱ぐことで、相手を信頼しあえる。
無茶なことをいう人や我を忘れている人は後で後悔もするでしょう。心を煩わせる病気の人の言葉は聞かなくていいです。お互いに悪循環になるので、考えるのをやめるべきです。
(人には人は救えないから。人を救おうと思わないでください。)

支援者もクライエントも同じ人間です。病人だと思うから医者がいて上下が出来る。どちらがなんてないのだから、支援員は無理に何かであろうとしないほうが良いと僕は思います。

(努力しますけど、できることだけで何もしないでいいと僕は思います。)

社会から否定され生きることすらできない社会で、僕が僕であっていいということを認められるだけで、どれだけの人が救われるでしょうか?
ただ心を平穏に保つことが重要だと思います。

「相手に期待することも暴言を吐かれることもあるでしょう。
でも、医者も支援者も苦しんでいる。相手にはなれないのだから、病理、例えば家族の事とか対応できる範囲でやってほしいです。
仕事や生きることはまず二の次です。
まず、隣で話を聞くことが一番重要ですので、相手に困っているのなら何もしないべきだと思います。」

人と人は僕が僕であることで何かを学び、奥底に神の意志が働いていると僕は思います。
あなたがあなたでいることが一番の答えだと僕は思います。