喪失と呼ばれるものには
二種類あって
ひとつは、「実際に失ったもの」
たとえば大事な人との別れ。
病気や怪我。
引っ越しや転勤。
一見、幸せそうに見える
「進学」や「結婚」でさえも
それまでの生活を失う、という意味では
「喪失」になり得るのだそうです。
環境が大きく変わることで
同時に
失う何か。
もうひとつの喪失は
もっと、わかりづらいところにあって
それは、
「得られたかもしれなかったのに
得られなかったもの」
たとえば、子どもらしく
自由にのびのびと振る舞うということ。
自分が思ったままを口に出せて
それを受け入れてもらえる環境。
多少の失敗はあったとしても
それとは関係なく、
「あなたはそのままでいいんだよ」と
認めてもらえた経験。
得られたかもしれないのに、
得られなかった。
それは、とてもわかりづらくて
ある程度大きくなってから
自分と、他者の環境を比べてみなければ
わからないようなこと。
あの子はふつうに得ているものを
わたしはまったく得られなかった。
気づいた時点で
それは喪失に変わるのかもしれない。
「あぁ、わたしはそれを
得ることができなかったんだ」
「わたしは、それを
心の底から求めていたのに。」
グリーフケアという言葉を
耳にすることが増えました。
一般的には、
大切な人との「死別」に対する「悲嘆」を
扱う文脈で、
使われることが多い気がします。
けれど、もう少し広い意味で
子ども時代に失ったもの。
あるいは
ほしかったのに
得られなかったもの。
そうしたものに対する
痛みや嘆きについても
グリーフ(悲嘆)という言葉
あるいは
それに対処する
グリーフケアの概念を用いて
失った痛みを
癒していく。
「喪」の作業をおこなっていく。
そういう風にして
子ども時代の痛みを
癒して、そして
手放していくのだそうです。
まずは、「喪失」があったのだと
気づくこと。
そして、
それを見つめることで湧き上がる
感情を認めて、
受け入れて
昇華させていくこと。
時間はかかるかもしれないけれど
まずは、喪失について
知ること。
そんな風にして
気づくことから
始まるんだと思います。
そんなことを最近は
学んでいます。
わたしは、それを欲しかった。
でも手に入らなかった。
それに対して恨み、怒り、憤る。
けれどそれは
誰にも
どうすることも
できなかったんだと思う。
諦めて、手放す。
わたし自身が
そういう「喪」の作業をおこなってきた。
それを、今
振り返って
自分の人生に何が起きていたのかを
もう一度、
見つめなおしている途中です。
抽象的すぎて
何の役にも立たないと思うけれど
「喪失」について
少し書いてみたくなったので
今日はこんな文章です。
* * * * * * *
過去と向き合って
抱きしめたいと願うときに
いつも聴いてきた曲。
お越しくださり
ありがとうございました。
明日もあなたが
笑顔でありますように。
山本 麻莉




