「中動態の世界」という
 
わたしの世界観を確実に変えた
一冊の本がある。
 
今はもう失われてしまった、
「能動態」でも「受動態」でもない存在。
 
 
 
 
たとえば、「謝る」という
行為について考えてみる。
 
 
謝罪の言葉をただ口にしたり、
形式的に頭を下げたりしただけでは
きっと
本当の意味では「謝った」ことにはならない。
 
『本当にすまないことをした』
 
という感情が
心の奥底から湧き上がって、はじめて
「謝る」という行為が完結する。
 
 
それは、人の自由な意思によって
コントロールできない類のもの。
 
感情が一人でに湧き上がってくるのを
待たなければ完結しないもの。
 
 
それらを言い表すために
使われていた言語形態が
 
今では失われてしまった、
「中動態」という態なのだという。
 
「能動態」でも「受動態」でもない
 その狭間、とも言えない存在。
 
 
 
 
「許す」、という行為も
それに似ていると思う。
 
 
 
「私は許します」と、
 
自らの意思で決めて
許そうとしても。
 
 
 
「心残り」という言葉があるように
 
心の奥底に
何らかの感情が残ってしまうのなら、
 
それは本当の意味で
「許せた」ということには
ならないような気がしている。
 
 
それは、それでいいと思う。
 
許せないなら、
それが自然な気持ちなのだから
 
善いも 悪いもない。
 
 
 
 
一番 苦しいのは
 
「許した」はずなのに
 
「まだ、許せていない」
 
という矛盾した状態を、
自分が許せていない時のように思う。
 
 
 
どんなに頭で考えて
「許す」と決めたことでも
 
心の奥底に
「許せない」という感情が残っているのなら
 
 
今はまだ、
その時ではないんだ。
 
 
 
今は、まだ許せなくても。
 
いつか、その時はくるはず。
 
 
 
 
「許そう」と思って許すのではなく
 
「許せない」と思う気持ちが
 
 
 
ひとりでに 手を離れて
 
ひとりでに 解き放たれていく。
 
まるで、意思を持ったかのように。
 
 
 
いつか、その時はくるはず。
 
 
 
だから
 
「許せない」自分を、どうか
 
許してあげてほしいなと思う。
 
 
 
 
どうか
 
「許せない」と思う気持ちも、そのまま。
 
 
 
箱に閉まって、蓋をしておいてもいい。
 
意を決して、少し見つめてもいい。
 
荒ぶる気持ちを、
文字にしてノートに書き殴ってもいい。
 
 
 
だいじょうぶ。
 
 
時がきたら
自然に手を離れていくから。
 
 
ちゃんと、許せるから。
 
 
だいじょうぶ。いつか、きっと。
 
 
 
* * * * * * * *
 
 
許せていないこと、いくつか
あります。
 
 
普段は忘れていて、
何かの拍子に浮かび上がってくる。
 
暴れ出す感情を
ノートに書き綴って、
 
もう手放せる、と思えば、手放す。
 
まだ消化できていない、と思えば
また、記憶の箱に入れて、閉まっておく。
 
 
大体がそんな感じです。
 
 
中動態の世界、という本は
2年くらい前に初めて読みました。
 
 
哲学書の引用が多くて難しくて
そんなに読み返せない。 
 
でも、
確実に、読む前と後では
世界の見方が変わる本です。
 
また時間を見つけて、読み直したい。
 
 
 
最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
 
 
またどうぞ、お越しくださいませ。