東日本大震災の2ヶ月前、1月5日、切迫早産と喘息の治療を受けながら37週に入ってのお産は市民病院でした。



2ヶ月近く身内も誰も面会もほとんど来ない、寂しい入院期間でした。




たまたま、友達ののっちゃんが、上の階に旦那が入院していて、久しぶりに病院で再会しました。
旦那が退院近かったのですが、私の分もおにぎりを作ってくれ、ヨーグルトなど持ってきて顔を出してくれました。これが唯一励みになりました。





個人病院からまわされて来て、お腹の超音波で子供の心臓に穴が開いていることがわかりました。
この時点で信仰は持っていましたが、シータヒーリングのことはわからなかったので、遺伝子ワークや、自分のビリーフワーク(思い込み、潜在意識のクリアリング)は、やっていませんでした。



32才からずっと薬も飲んでいたし、41才8ヶ月という年齢もあったので5人目のお腹の女の子も無事に五体満足で産みたいと思っていました。



母には、年をとってからバカだと言われていましたが、私が強く望んですぐに受胎したこの子の名前は、真理と決めていました。




小児科の先生が笑顔で大丈夫だからと励ましてくれ、とても安心できました。




1月5日小児科の受け入れ体制も万全な状態で昼から促進剤を点滴で入れて一気にお産になりました。
産んですぐに、しばらく右側に抱かせてくれて、お乳を吸わせるように言われてその時間を十分持ってから、心臓の検査の為、待機していた小児科の方に連れて行かれました。




医師からの説明がありました。あまり不安には思っていませんでした。
心室中隔欠損とのことでした。心臓の真ん中の一番太い筋肉のところに5ミリ近い穴がありました。
幸いにも穴の場所が大きくなって筋肉の発達と共に閉じる場所にあったので医師からは小学校に入るまでには閉じるでしょうと言われ、励まされました。




気をつけたのは、あまり泣かせないようにしたこと、感染症にかからないようにでした。
この子は、産まれてから抱っこ紐で私にくっついてないととにかく泣くので、春、保育園にやるまでは、昼寝などもできず朝から晩までくっついていました。
私だけが大好きなんだというのが伝わりました。




真理が2才4ヶ月の時にシータヒーリングに出会いましたが、真理が8ヶ月の時に1才9ヶ月の樹里が肺炎で入院し、今度は、真理が1年後に紙オムツに大量の大出血、腸じゅうせき。早い先生の処置で助かりました。
そのすぐには、樹里が高熱で嘔吐し県病に入院。



全く母親や身内の手伝いもえられない中、仕事で予約の入ったお客を受けながら、仕事しながら、ヘルプを出せない私は、いろんな意味限界を超えていました。




変わらなかったのは、私の中にある『真理 』でした。





95年8月25日、地獄の門が開いたのです。


何も知らない人がこう聞くと頭がおかしいのでは…?と思うかもしれません。


3才8ヶ月過ぎた次女を、いつも通り連れて電車に乗り川崎の武蔵小杉で降りると、改札のところで次女が、ボクシングをやる人がパンチをかわすように、横に頭を、上下に頭を…怯えるように奇妙な、行動をしていました。おとなしい我慢強い子供だったので、
『弥生、どうしたの?』
寄って聞くと、
『顔が次々前から飛んで来るの~』
というのです。前から飛んで来る悪霊を避けていたのでした。


彼女はとても敏感でサイキックだったので、すぐ察して道場まで手を引っ張り、祭壇の前で霊人を連結させるために祈りました。



自分もいろんな意味厳しくなったのを感じていました。

そこから日本では天使総動員で大役事が始まっていったのです。




我が家では、私が好きでセキセイインコを飼っていました。その時から手乗りにしていたインコのマヤが豹変したのです。
ヒナから人工で育てて、よくなつき、『マヤ、マヤ』と言葉も喋っていたのですが、次女がマヤじゃないと言い始めたのです。
マヤは、目がつり上がり、近くによると威嚇し、突ついてきて攻撃的になってしまったのです。
ショックでした。今でしたらシータでマヤと話せたのでしょうが…。



次女の弥生を年中から、新羽にある浄土真宗のお寺の幼稚園に行かせました。
バスの送迎でしたが、次女は毎日、何も言わなくても制服に着替え、一人で鏡を見ながら三つ編みにして支度をするので、ほんとに手がかからず、正座で法話も聞くような幼稚園だったのですが、彼女にはとても合った幼稚園でした。



わがままも言わないのですが、しいて言えば一つだけ、ある日幼稚園から帰って来ると
『ママ、お弁当が足りないの…。』
私は、怒ったこともないのですが、
『あっ、そう。足りないんだぁ。』
ちょっと困りました。その時点で既に、二段弁当を持たせてやってたのです。




4才になる前には、ラーメン屋でも大人の一人前をペロリと平らげていました。他には、おとなしく、優しく、しっかりしていて、何にも困らせるような子ではなかったのです。





またうちで産まれたセキセイインコの、手乗りの太郎がいました。組ませるつがいで、ほんとうに芸術というくらい綺麗な色の、高級セキセイインコが誕生するのです。
太郎もヒナから人工飼育して手乗りにした、綺麗なインコでした。ちょっと珍しい頭が黄色で、体はバイオレットというイエロー・フェイス・オパーリン・バイオレットという品種で、とてもなついていました。



その太郎を次女が幼稚園に持って行って、みんなで飼いたいと言うのでした。



私はさっそく、次女のあまりないお願いをのんで、担任の先生に話すと、先生が、その太郎をクラスのみんなでお世話しましょうと承諾してくれたのです。



次女は毎日喜んでくれるお友達と犬のようになついている太郎に会いに、喜んで幼稚園に行きました。
毎日、エサや水を替えて世話をしていたようです。



夏休みが終わり、久しぶりに幼稚園に行って帰って来た次女が、
『ママ、太郎がね、太郎じゃないの…。』
泣きそうに話してきました。



私もすぐに、次女の言うことがわかり幼稚園バスでの送迎をその日はやめて、直接幼稚園に迎えに行って太郎を見に行ったのです。




次女の言うとおり太郎ではなく、太郎に似た頭の黄色い、薄紫のセキセイインコがいて、近寄ると恐がって逃げるのです。太郎だったら間違いなく、
『太郎っ』
と呼ぶと寄って来て、顔をスリスリして、撫でてちょうだいと甘えてきましたから…。





夏休み飼育した先生の誰かが誤って逃がしてしまい、次女にはわからないだろうと、似ているインコを探して買って来たのがわかりました。




クラスのお友達は、みんな気づかずとも、次女の弥生にはとてもショックだったのです。
『先生に聞いてごらん?』
と言ったのですが彼女は、最後の最後まで逆に先生を困らせず、太郎と思っている風をよそおって違うインコの世話をずっとしました。




卒園式で感極まって泣いていたのは、次女一人でした。それを見た先生達がみんな泣いていました。
他のお母さんも次女を見てもらい泣きをしていました。



誰か、逃がしたなら、ほんとのことを言ってくれたなら、20年経った今も『太郎はどこに行ったんだろう…。』と言うこともなかったのでしょうが。










みんなが気づいていなくても、気づいている人はいるのです。


年が明けて95年1月17日、Tは、誰もが驚く中、文鮮明氏に会うために、仕事を休んだのです。過去の因縁をひもとく為に行われた韓国との兄弟血縁式を兼ね、男性初の修練会に日本から数千人の男性が朝早く日本から金浦空港に飛んだのです。



まさか道場のみんなが、こんなとっぽい人が行くなど思ってもいなかったので驚いて感動していました。
とても意味深い日本の命運をかけた摂理でした。



その日私は、ロッテリアのシフトが入っていて子供達を保育園に出して会社に行き、制服に着替え休憩室に入ったのです。そして目に入ったテレビの光景に驚き、どこの事態なの?映画なの?混乱してしまいました。
それは、阪神大震災でした。(ありえない…。)やはり、摂理は急がれ、緊急事態だったんだ
と改めて思いました。Tとは連絡はとれないし…。



全く仕事が手につかない状態で、やっと時間をこなして来たのを覚えています。




4年前の東日本大震災もそうでした。生後2ヶ月の5女を抱いていると、ただ事でないくらい揺れ、あっという間に携帯も何も通じなくなりました。

向かいのスーパーも電気が落ちている、一気に人がスーパーに出入りしたのです。信号機も赤も青もつかない…。まだまだ東北は雪の残る寒い3月、ミルクのお湯も湧かせない、あっという間に日が暮れてどこもかしこも真っ暗になってしまいました。



科学の村上和夫先生が出演する【祈り】ーサムシンググレードーという映画を青森ではやってなく、1年半前に渋谷のアップリンクで観て来ました。
思いが通じ、1年前青森でもねぶたの家ワ・ラッセで、にんげんクラブ青森支部という方達の働きで、一日公開されました。



その映画の中で村上和夫先生(筑波大学名誉教授、科学の先生)が、『天災は、天からのメッセージです。地震研究においても日本は世界のトップレベルになった…それでもだめだろう…。』

『この規模の地震が来るのを予測出来なかったというのが事実です。水が出るのが、電気がつくのがどれだけありがたいか…。太陽や空気があることがあたりまえではなく、感謝、謙虚になりなさいというメッセージです。』と言われていました。


映画の中では、医学博士、細胞生物学者、アメリカのジャーナリストが、コメントしています。


〈私達が、今変わる時に来た。優しさ、思いやりをもって接することを考える時。マイナス思考、物質思考がもたらした結果が自然災害、犯罪だと…。〉



〈祈りと瞑想は同じように鎮静効果があり、波動が静まり、高い周波数を減らすということ、地域で1パーセントの人が瞑想をすると犯罪が減るという結果として数値で出るのを見ることができるようになったというのです。〉



〈乱れた祈りは神に届かない。脳波が活性化すると宗教を超越しているのがわかります。
深い鎮静状態になると誰でも神の反応を感じられるようになると…。〉



『祈り』には凄い力がある。科学における意識研究の最前線!というこの映画は、みんなが観れたらいいなと思います。




Tは数日後、無事に日本に帰国しました。彼は、『あの人の世界でなしている偉業と、あの人に会って屈服した。』
と完全に日本では悪名高き報道されて来た方の真実を、自分の目で見て聞いて、完全に文鮮明氏に屈服していました。





彼は、誰にでも心を開く人でなく、人間との闘いも多く、誰にでも頭を下げるタイプでもありません。



しかし、文鮮明氏にお会いして、完全にこの方の深い愛と厳しさと命をかけた宇宙の闘い、霊界の闘いと救いの理論に感動、屈服していました。

94年(平成5年)の春から、幼稚園に行っていた長女を年長で近くの保育園に、3つ下の次女も2才4ヶ月で一緒に保育園にやりました。



幼稚園では、クラスの父兄の中でも私は最少年齢でした。保育園と違うのは、やはり仕事をしていないお母さん達と違い、時間もあるのか、必ずお迎えの時には、誰々ちゃんの家に集まるとか約束ができていて派閥もありました。



私は、仕事も信仰もしながら毎日時間の主管にと忙しい日々でした。
二人の通ったところの園長はとても厳しい方で、みんなが一線おくような雰囲気でした。





でも私もいつも笑顔で先生や周りのお母さん達と接するようにして、役員の書記に選ばれたので、バザーなどあると協力して、他のお母さんとも仲良くやっていました。仕事を持っている状況のお母さんと仕事をしてないで幼稚園にやっているお母さん達の違いが、はっきり見えました。
みんなみんなそうではないと思いますが…。





入園した時、紙オムツをしていた次女に、『弥生、明日から保育園で紙オムツはできないの、このパンツ(布の普通の幼児パンツ)をはいて、漏らすと冷たいからね。』と話して一度言い聞かせました。紙オムツを認めてない保育園でした。
次女は、一度話を聞くと、布パンツをはいて行ったその日に完全に一日で紙オムツがとれました。
ほんとに話をよく理解して、口数は少ないのですが空気を読む子供でした。





一方長女は年長の年だったのですが、園長の大変なお怒りをかってしまうということが起こりました。
それが、園長の娘さんである主任の(独身)身ごもった話を園でしたというのです。
それは、あってもなくても父兄の中で噂にはなるような内容かもしれませんが…。
これまで、怨讐を愛する(愛せないものを愛せない時に愛する)を実践して、自分に体得しながら涙の涙を越えて来た私には、正直許せない園長からの子育て批判を受けて、子供が言うような内容ではない話(言いがかり)をされ、ほんとに複雑な心境でした。
結局、言いやすい私に言いがかりをつけて来たのです。



子供の保育園をやめさせることも考えました。父兄でも太刀打ちできるような園長ではなかったのです。
私は、深く深く祈りました。
そして与えられたのは、今、私の怨讐である園長を愛するというものです。
これは、統一協会の文先生の原理でした。
私は、もちろん仏教の教えも学んでいましたが、並行して新約聖書、統一教会の原理講論の内容も学んでいました。
日本人には、聖書は馴染みにくいとか、解釈が人によって変わって来たので何万、何十万とキリスト教が分かれていったと思いますが…。


私より当時夫のTの方が、聖書が好きで聖書よこせと言って聖書を読んでいました。
原理講論は、聖書の真髄や、理解できない聖書の中に出てくる人物や、創造原理、堕落論、復活論、重生論、終末論、再臨論、などが明確にされたものです。
(詳しい内容は、省きます。)



そして私は、園長に手紙を書きました。
それが事実でなくても、娘の言ったことでご迷惑おかけしたことを謝ること、(実際、娘は園長の娘の身ごもった話などしていない)そして私がどういう信念で子供を育ててきたか、どう長女がこれまで大きくなってきたか、私も園長と同じように、娘を信じて愛している母親であるという内容をつづりました。



しばらく園長は、うちの娘に辛く接し、私の目も見ることなく、無視するということをしながら辛くあたっていました。
それが、その祈って渡した手紙のあとから園長が変わったのです。
私は、無視し続けられても毎日挨拶をしていました。娘達にもかわいそうな思いをさせたくなかったし、内心は、ほんとうに自分もへこむどころでないほどの心境でした。
でも渡した手紙のあとから園長が挨拶をしてくれるようになりました。




そして娘も保育園最後の運動会を楽しく頑張り、お遊戯発表会は、市民ホールのような大きな会場でやったのですが、長女の組の年長は、ジャックと豆の木をやることになり、園長が娘をジャックのお母さん役にしました。




当時、天地正教は、日本の仇になっている霊界を整理する為に、過去日本が他の国に犯した大罪によって(日本では、トルコにしたいいことや、恩返しされたことは報道するが、アジアに対してやって来た大罪は、隠して来た。今の若い世代は教科書で習うこともないし、事実を知らない)恨みをかっている内容が霊的に多くありました。私、個人においてもそんな仇の霊界を身を持って知ることになったし、日本においても危機は、たくさんあったのです。



なぜここまで日本が守られて来たのか、わかる人は多くないでしょう。
むしろ知らない人がほとんどでないでしょうか。




私は天地正教では、韓国、中国殉難者供養、南北統一祈願祭、従軍慰安婦慰霊供養を心から日本人を代表する思いで供養をして来ました。私は、特にここに気持ちがこもりました。
本来必要のない痛みは、いらないと思いますが、私は必要以上に誰にも言えないような女性としても、人間としても痛みを受けて来ました。痛みを知らずして人の痛みをわかることはできないし、人は、愛されたり、喜びを与えられなければ、人を愛することも、喜ばすこともできないと思うのです。




長女は、周りにいる在日韓国人の方や、韓国の水墨画の先生などに小さい時から、周りが不思議がるほど、良くされ愛されて来ました。


水墨画の先生には、大人の人しか限定で書かないと言われたものを、呼ばれて大人の3倍くらいの大きな水墨画を長女に特別書いてくれて、その先生もサイキックな方で、情の深い方でした。長女千愛美に頭を撫でながら『よく勉強するんだよ。そしてお母さんを助けるように頑張るんだよ。』そう言われて水墨画を娘に渡してプレゼントしてくれたのです。





お遊戯会のジャックと豆の木の後半、空を超えて、天まで登って行ってしまったジャックを、お母さんがひざまずいて天を見上げ、両手を握り合わせ祈り続ける長女の演技が、素晴らしかったのです。(自分の子供ながらに、Tも感動しました。)

純粋に天に息子の無事を祈る母の姿がみんなに感動されました。

園長までが大絶賛しました。するとお遊戯会が終わり父兄代表で会長と副会長が、挨拶と花束贈呈をすることになっていたのですが、舞台袖でこのお母さん達が緊張で尻ごみをしたのです。

すると園長が、書記だった私に『あなたの娘、活躍したんだから挨拶しなさい。』と突然舞台におされました。もう、うもやも言えない、準備もなくすぐ舞台で父兄代表で挨拶をするはめになりました。

でも、信仰でも祭司の主導師などをしてみんなの前で法話をして普段実践していたので、できたのですが…。(準備もなく、緊張どころではない。)
最年少の父兄の私…。いろんな意味準備はしてのぞみたいものです。(神様ありがとうございます。)



そんな長女は、小学校の時は、算数の割り算ができないとか先生に呼び出されました。

文句を言って先生にかかって行くお母さんの子供達は、待遇がやはり厳しくなっていました。
私は、もちろん媚びることは嫌いではっきりした性格ですが、算数の件は、ほんとに先生に言われて、教えのとおり謙虚に頭を下げて、家でもトイレにかけ算を貼ったり、先生に深々お願いしました。その後、担任の先生は、よく娘に熱心に教えて勉強を見てくれました。



そんな長女は勉強をしろと一言も言ったこともないのに、よく勉強していました。進学校なのに大学にやれなかったのが残念でした。高校を終え、長女自ら3年お勤めをしてお金を貯めて、語学院に行きました。その間、青森のワシントンホテルや、RAB学苑でハングルを教えているミジャさんからハングルを習い、家族のように大変よくしていただきました。



語学院の後、ハングルで韓国の大学の国際観光科を受験し、休みになると、日本でアルバイトをして授業料をつくり、昨年無事に4年を卒業しました。
本人も努力した結果、JALに採用されました。



世界の架け橋、愛の架け橋になるべくして彼女は、とても神様に愛されて来た思います。



親ばかなのか、この子がいなかったら生きてなかったというくらい、家を出て行く時には泣きました。




とても私に力をくれた娘を誇りに思い、感謝します。息子の無事を祈る母を心と体と全てをもって表現した千愛美の姿は、一生忘れません。








高崎の妙高院先生の予約の時が来ました。


私は、当時区域長をやっていましたが、上の方にも下の班員さん達にも誰にも話さず秘密で行った
のです。何故かというと、私達は、神様【創】につながり、どう自分が歩むか、愛や、美徳を体得していくかということの方が先決であり、そういう霊媒師的な方から、過去生や、どうなるか自分の将来を見てもらうことを重要視しがちになりやすいのです。霊媒師は、4層のエネルギーを使うのであって、その方を神様と呼ぶ方も多くいるのが事実です。


決して霊媒師が、神様ではないのです。私が経験上断言します。
それは、シータヒーリングを知った方ならわかるはずです。【創】の7層といわれるエネルギーと霊媒師、シャーマン、占い師、ヨギのエネルギーから入るのと、【創】につなっがって4層のエネルギー、または、5層の宗教のエネルギーを使うのとでは違います。あくまでも7層につながる為のツールといってもよいかと思います。



7層の【創】エネルギーには、制限、誓約はないということ、このエネルギーを使ってどの層にもいけるということがわかりました。





5層は、制限、誓約にとらわれ、同じく祈りをしても祈りに無駄な時間を費やしていることを実感して来ました。【創】のエネルギーにつながって4層、5層のエネルギーを使うのがとても早いということ、4層のエネルギーは、神様のエネルギーではないこともあるので、自らの分別力が問われると思います。





そういうことを考えて私は誰にも言わずに妙高院先生のところに行ったのです。





中に入ると、私の名前を先生が確認して、これからあなたの守護霊をここに呼びますと言われ、台にあった奇妙な円盤の形をしたものに、ロウソクを何本もつけていきました。

『これから守護霊を呼びます。』



最初に来た守護霊は、やはり思っていたとおり、私の曽祖母の母にあたる5代前の先祖でした。

除籍をとっていった時に、この方の名前を見て驚いたのです。
私が当時の夫のTのことを昔からのみんなに呼ばれていたニックネームで【とよ】と呼んでいたのですが、その5代前のおばあさんの名前が【とよ】でした。驚きました。毎日といっていいほど口にしていた名前が守護霊の名前でもあったのです。


その方が私に妙高院先生の口を通して語り始めました。


『私は、夫を赦すことができない…。黄泉の世界をさまよっていました。真由美の信仰によって恨みの霊界まで引き上がった…。
子供が不憫で…。娘に夫が手をかけた。(男女の関係)絶対赦すことができない、娘が(私の曽祖母になる人)不憫でずっと守って来たんです。この夫と結婚しなければとずっと思っていた。
霊界からは、文鮮明が光って見えるので、真由美をその光に導いて来ました。あなたの信仰によって救われました。ご苦労おかけしました。ありがとうございました。私以上に長生きしてくださって(32才で他界、この時私は25才)小笠原家の氏族が救われるようになんとか頑張ってほしい…。
私が霊界から小笠原家の氏族を導く協助役になりますから。』




そう私の守護霊は話して、妙高院先生は、私が信仰の道に出会わなければ、早死にしていたことを告げてきました。

そうだろうなとは思っていましたから。この守護霊と同じ心情圏を通過していたのが納得できました。



この方の夫になる人は、私の曽祖母の父親で、煩悩ゆえに人間を失って来たことを隠すために、なお、酒を飲んで、酒に飲まれていったということ、その娘である私の曽祖母は、幼少からの恨み故に、豪が強くて晩年に至るまで苦労していかざるえなかったという話を先生から聞いて、とても納得したのです。

そのとおりでしたから…。


その守護霊の方が亡くなった32才に私も霊的に死んでしまうとは、その時全く思ってもみませんでした。



そしてこの私の守護霊の【とよさん】が夫であったTの守護霊と会話してくれるとなったのです。


そこに来たTの守護霊は、Tの曽祖父とTのお母さん(私達が16才の時に40才で他界した)でした。


Tのお母さんは、黄泉にいて苦しんでいる、とても守りたがっているとの話でした。


『私はとても寂しい。私の夫は、一度たりともこの私を見舞ってくれなかった…。夫はいつも私や子供達のことより、組の者たちに対することで忙しくて私のことを妻として思ってくれなかった。
私のことをほんとうに愛してくれた夫でしたが、私は夫のことを恨みに思う。私はいつだって夫のそばにいながら、そばにいない者のようにあつかわれた。悲しく辛いことでした…。
私の苦しさは、夫の女性問題、私を愛してくれている夫でありながら夫を赦せないことでした。

私のことを力づけ、なぐさめてくれる子供達がいたから生きて来れました。赦そうと思っても私の心に鉛のように恨みの思いがとりついて、赦すことができません…。

でも今、文鮮明の名前を聞いた時に鉛のような物がすっと離れて、純粋にこの人を愛した時の心が蘇っってきました。
私がもっと強ければ良かったのでしょうが…。

息子の嫁、真由美さんのしている信仰をわかって救われました。
私は、良き息子がいたことをありがたく思います。子供を産んで良かった…。恨みを忘れることができました。』



この後、妙高院先生が『母親としての情がとても強い方で、ずっとうつむきかげんで、黙って全部全部、言いたいことを言わないです。』と話すと…



Tのお母さんが『Tに伝えて下さい。私は、あなたによって救われました。あなたのことを守っていた母がいることをわかっていたでしょう。
お母さんが最後の最後まで苦労して、あなたや他の子供達の為にどれだけ母親らしいことができたか悔いが残りました…。神様の赦しによって素晴らしいところによせてもらいました。
長い長い旅路からやっと幸せに安どしています。お母さんからTに話したいことは、妻を泣かせるようなことはないように、それだけは伝えておきたかったことです。
◯◯家の先祖の前に恥じないような生き方をして下さい。お母さんがあなた達子供に伝えたいことです。
神様から赦された今の自分を受け止めて生きていきたいことです。』



とTのお母さんが私に息子に託すことを言ったあと、妙高院先生が、今日初めから真由美さんと一緒に来ていました。氷山の一角しか話していませんが、母親として【守りたい】という情でいっぱいの方です。



これが姑であるお母さんからのメッセージで、気づいていましたがやはり私の守護霊でした。




この後、Tが酒を飲むと転げるだけ苦しんだり、酒を飲まないようになり、一緒に信仰をし、それからまもなく、Tの父親も思いがけない形で◯◯組という、や◯ざの組織から完全に脱会しTのお兄さんも兄弟皆、かたぎになったのです。




そして私の最初のデバインタイミングは、やはりTと文鮮明氏に寄って奇跡的に受けた祝福でした。
🔱シータヒーリングのゲームオブライフの受講の中でカモミラ先生の誘導ではっきり見たのです。これは、私の中の秘密でした。

(次のデバインタイミングは、この地上ではなかった…。)



その時にTが私を写した写真の後ろに、はっきり写っていた女性をTに見せると『あっ、母ちゃんだ!』

それをTの実家の父親も弟達も見たがり、写真を送るとみんなお母さんだと感動していました。



Tのお母さんは、ほんとうに私の守護霊として必死に協助していました。
ご利益の神様はいません。
自分の自力本願は、神様から見て5%でも神様は95%働く、信じて5%の責任を果たすこと、徳積みをすると100%になると実感しました。


他力本願のご利益の神様は、いないのです。ご利益の神様ではないのです。英雄の神様でもないのです。




Tの父親も愛人とは切れて、いつも亡くなったお母さんだけを愛する人に戻ったのです。