昨日、夫が長男の引っ越しの手伝いに行った。

その前々日、私は夫に尋ねた。

「引っ越し業者に頼まないの? フランス国外でしょ?」

夫はすぐには答えなかった。

テーブルで目を落としていた姿勢から、ギロリと私に目を向け、

少し咎めるような口調で言った。

「引っ越し業者? めちゃくちゃ高いじゃないか。」

ああ、この人は最初から自分で荷物を運ぶつもりだったのだ。


 

今は、長男がどこへ引っ越すのかを書くのは避けておく。

長男がフランス国外の音楽学校でバイオリンを続けるため、

パリの長男が今、住んでいるところから引っ越すことになった。

「国外 → 引っ越し業者」

これが、特に情報を持っていなかった私の頭の中に浮かんだ図

だった。

引っ越し費用など、具体的なことは何も調べていなかった。

「どうするの?」

と聞いても、どうやら私たちはうまくコミュニケーションが

とれていなかったらしい。

私は「長男は外国へ行くんだから、いくら何でも引っ越し業者に

頼むでしょう」というつもりで聞いていた。

当然、夫も同じように考えていると思っていた。

ところが夫には、そんな考えはまったくなかった。

夫にしてみれば、私の質問は、長男といつ落ち合うのかとか、

そういう具体的な段取りについて聞いているものだと思っていたらしい。

夫婦といっても、頭の中で描いている図が同じとは限らない。

 

その国は、国外とは言っても一応、陸続きではある。

とはいえ、知らない場所、それも外国まで、自分で車を運転して

重い荷物を運んでいくという夫の根性と謎の機動力には、

正直「すごいな」と思った。

前日になって、

「明日行く。」

と短く言ったかと思うと、昨日、出かけていき、

深夜を過ぎてから帰ってきた。第一回目の荷物運びを終えて。

夕食を外で食べてもいなかった。

帰ってから深夜に私が作った焼うどんを食べていた。

おそらくこれから数回あるであろう引っ越し。

「何時間くらい、行くのにかかった?」

4時間くらい。」

そのあと長男をパリまで送ってから帰ってきたので、

帰りはもっと時間がかかったはずだ。

「迷ったりしなかった?」

「道を見つけるのがなかなか大変だった。次はあんたが一緒に来て、

助手席で道案内をしなければならない。一人では難しい。」

ということで、今度は私も同行することになるらしい。

高齢出産で子どもを産む人もいるかもしれない。

相手次第ではあるが、「もう体力がない」などと言っていられない

サバイバルな状況が、これから待っているのかもしれない。

覚悟しておくのだぞ。(笑)

GPSがうまく案内してくれるといいのだけれど……。


 

「話を聞かない男、地図を読めない女」という本のタイトルを

見たことがあるだろうか。

日本にいた頃、読んでみたいと思いつつ、結局手にしそびれた本だ。

タイトルを見た瞬間、

「これ、夫と私にぴったりすぎる!」

と思って、笑い転げそうになった。

内容はどうなのだろう。

いつか読んでみたい。

私は日本で車の免許を取ったとき、乗る気は満々だった。

ところが、車がなかった。

当時は夫の転勤で北海道に来ていて、その次にどこへ

勤務するのかもわからなかった。

学生結婚をして間もない私たちには、車を買うという考えさえなかった。

そんなわけで、私はペーパードライバーになった。

車に乗らなければ、当然、地図を見る機会もない。

だから私は、ずっと「地図を読めない女」を自認していた。

一方、夫はというと――。

夫は、いわゆる「瞬間湯沸かし器」のようなところがある。

昭和の世代ならご存じだと思うが、昔の瞬間湯沸かし器は、

スイッチを入れると「ぼんっ」と火がついて、すぐにお湯を供給してくれる。

夫の場合も、何かの拍子に突然、「ぼんっ」とスイッチが入る。

結婚して、夫の経済で暮らすようになってから、

それまで神様のように穏やかだった夫が、別人のように変わった。

今思えば、あれが私の、長い「夫婦修業」の始まりだったのかもしれない。

「あんた、昔と変わったよね」

と言ったら、夫は全然面白くない冗談を言った。

「釣った魚に餌をやらない。」

……というような意味の冗談だった。

――冗談じゃない。どの口が言う?

と憤ったことを覚えている。

助手席ですぐにナビができないと、「瞬間湯沸かし器」になる夫。

私は、それが嫌で嫌で仕方がなかった。

ところが、長男が私の代わりに助手席に座ってナビをするようになった。

長男が進学のために家を出てからは、次男が助手席で

夫のナビを担当するようになった。

息子たちはわたしに優しい。

「ママが助手席に乗らなくていいの?」

ちゃんといつも聞いてくる。

「いや、いいの。パパの案内してあげて。」

その次男も進学のために家を出た。

そして現在は、夫と一緒の時も私の車で移動することが多くなり、

私の携帯電話が無事にナビをしてくれるようになった。

おかげで、私のストレス度は一気に下がった。ゼロ。

文明の利器、ありがとう。

ところが、私の今の車はコンパクトカー。

そのため今回は、夫がコンパクトカーでない自分の車で

長男の引っ越しを手伝うことになった。

もし、私の携帯電話が夫の車にうまく接続できなかったら・・・。

悪役「瞬間湯沸かし器」夫が、久しぶりに再登場することになる。

そう考えただけで、私はちょっと恐ろしい。

いや、かなり恐ろしい。

でも、忘れないでおこう。

私は変わった。

以前のような、おとなしく従順な「瞬間湯沸かし器」の餌食になるタイプではない。

……とはいえ、車内で派手な夫婦喧嘩をして、事故だけは起こさないようにしよう。

いざとなったら、負けてあげよう。

でも――あとで覚えておけ。(笑)


 

ちなみに、夫がギロリと私に目を向け、咎めるような口調で言った、

「引っ越し業者? めちゃくちゃ高いじゃないか。」

という言葉を聞いたとき、私はマリー・アントワネットが

言ったとされる言葉を思い出した。

「パンがないなら、ブリオッシュを食べればいいじゃない。」

……という、あれである。

本当に彼女がそう言ったのなら、単に「情報がなかっただけ」

なのかもしれない。

そう思った。

ところが、この言葉を書いたとされるジャン=ジャック・ルソーの

文章を調べてみると、実際には別の王妃について書かれたものだった

という事実がわかってきた。

つまり、マリー・アントワネットが言ったという確かな証拠は

ないらしい。むしろ、他の王女が言ったと言うことができる。

 

夫の「引っ越し業者? めちゃくちゃ高いじゃないか。」も、

私の「国外なら引っ越し業者でしょう。」も、

結局はお互いの頭の中にある情報が違っていただけなのだ。

まあ、次回の引っ越しでは、GPSがちゃんと働いてくれ、

私が助手席でナビできることを祈っている。