ブログネタ:「誰でも良かった」で殺されたくない! 参加中「誰でもいい」っていうのは詭弁であって、絶対に誰でもはよくないはず。彼にとって認知している人間には刃物を振りかざせないわけで、見ず知らずの人間に対してだから犯せるっていうのは、基本的には弱いものいじめの構図と同じ。親への恨みなどを口にするならばまずは親への復讐をするほうがストレートな発想だけれど、気が弱くてそれはできない。ゆえに遠回しなやりかたの復讐劇に及ぶことになる。まずこれが基本概念ね。
弱いものいじめの構図って書いたけれど、結局甘やかされて殴られもせずに育って、「痛み」を知らな過ぎるんじゃないかって思う。生命っていうのは「エネルギー」であって、自分を活かすも殺すもそこに気づけるかどうかだよね。でも「痛み」を知らないとそこにはいけない。復讐の発想っていうのは何も建設的なことを産まないし、単なる自己満足で終わるわけだ。自己満足で終わって気が済むっていうのはあまりに世界が狭いし、狭すぎる世界だから人間が介在する空間が狭い。ゆえに人間の美しさっていうものをいつまでたっても理解できない。それが僕みたいな病理的な人種なわけですよ。あの手の事件を起こしている連中っていうのは、認めたくないけれどわりと近いところにいるタイプなんじゃないかって気もする。
奴らを捜査する際に決まって出てくるのが過激なゲームソフトやらマンガやらアニメを押収とかっていうような報道。そういうのが主要因であるとは宮崎勤のときから僕は思っていないんだけれど(どんな酷い描写をしていようが作品に罪はない、っていうのが僕のスタンス)、ただ最近のその手の作品ってちゃんとメッセージあるのかな?っていう疑問がある。僕もいろんなものに影響されて生きてきたけれど、でも誰かを殺したいとかって衝動にかられたことはないんだよな。そこが不思議。「もう死んじゃおうかな」っていうのは定期的にあるわけだけれど、誰かを道ずれにしようっていう気持ちはないです。死ぬときはひとりだろうね。
どんなメタファーがあったっていいし、表現の自由ってものを死守するためにも僕はその考えを曲げるつもりはない。ただつまらないものの悪影響でねじ曲がったり、浅はかな衝動に駆られるっていうのは実に惜しいし馬鹿馬鹿しい。少なくても昭和40年代のサブカルものっていうのはナンセンスではあったけれど、同時に意外と深いテーマがあるのに後で気づいたりしてね。そういうものととともに育つことができたことには物凄く感謝しているんだけれどさ。でもそういうものって最近もあるんだよ。なんでもそう。自分が四面楚歌になって何かに寄り添いたい、気を紛らわせたい、ヒントが欲しい…どんな感情だっていい。それに応えてくれるものはそれこそ死にもの狂いで探せば出てくる。死んじゃう前に、誰かを殺める前にさ、そういうものを探してごらんよ。それからでも遅くないし、第一遅いも何もないんだから。ある出逢いに時間がかかるんだとしたら、そこには凄く意味がある。たとえ恨めしくても取り返しがつかないと思ってもね、その意味を考えるべきなんだ。
意外と歌が教えてくれたりすることもあるんだよね。チャボさんの歌とかさ、実に深いし言い合てている。
仲井戸麗市「ガルシアの風」 仲井戸麗市・作詞作曲
ガルシアの風に吹かれて 僕等は丘を渡ってく/陽だまりの里に辿り着いたら なだらかな坂道 川へと降りてく/君は自由の服に着替えて 冷たい川の水に足をひたす/“幸運なお陽様”が顔をのぞかせ 僕等を祝福する/ああ どうにもならぬ事など 何もなかったのです/ああ どうしようもない事など 何ひとつなかったのです/草木を植え 花を育て 水を汲む/風をつかみ 夜空を仰ぎ 月に祈る/祭りの夜に 火を焚き 唄を詠み 収穫の雨を乞う/さあ 明日の子供達よ 海へ森へ走れ/世界中のささやかな夕食のテーブルから/おいしいごちそうが消えてしまう その前に/ああ どうにもならぬ事など 何もなかったのです/ああ どうしようもない事など 何ひとつなかったのです/ガルシアの風に吹かれて 僕等は遥かな丘を渡ってく/陽だまりの里に辿り着いたら なだらかな坂道 川へと降りてく/僕等はみんな自由の服に着替えて 冷たい川の水に足を投げ出す/やがて漆黒の夜が訪れたら/僕らは 盗まれた星達を取り返しに行く/ああ どうにもならぬ事など 何もなかったのです/ああ どうしょうもない事など 何ひとつなかったのです/ああ どうにもならぬ事など 何もないのさ/ああ どうしようもない事など 何ひとつないのさ
90年代に入り退廃的な思想のものばかりが増えていって、ロックシーンはオルタナ/グランジ旋風の嵐…あの頃はつらかったな。古着ブームできらびやかなものは消えてしまって、音楽も80年代のカラフルなポップさは一気に隅に追いやられた。それまでの価値観を一言で「古い!」と酷評されてしまうような世の中。つらまなかったなぁ。それでもそういう音楽の中にも好きなものはあったから、自分なりに付き合い方を探していったわけだけれどね。
チャボさんのこの歌はそんな閉塞感へのアンチテーゼとともに、これから生きていくための姿勢みたいなのもこめられている。ガルシアっていうのは故ジェリー・ガルシア(グレイトフル・デッド)のこと。といっても、ヒッピー・ム-ヴメントの行く末みたいな単純な落ち着きどころではなくて、テーマはシンプルだけれど物凄い大きいと思った。“やがて漆黒の夜が訪れたら/僕らは 盗まれた星達を取り返しに行く”なんてフレーズは特にね。そのときは間違いなく僕も取り返しにいくはず。

あの頃僕はチャボさんの「密室」シリーズを観に日清パワーステーションに通っていて、ライヴのたびに新しい曲が披露されていた。「ガルシアの風」もそのうちのひとつだったし、そういった曲が最終的にパッケージされたのが『My R&R』。現時点でのチャボさんの最高傑作なんじゃないかな、このアルバムは。駄作ないと思うけれど、とりわけこのアルバムの孤高さは凄いと思う。このアルバムを超えるたびにずーっとチャボさんは闘い続けているように見えるくらいにね、凄い深みがあるんですよ。
「My R&R」なんて歌えるか? 早川義夫さんはカヴァーされていたけれど、よほどの覚悟がないと歌えないと思うよ。そこに対峙するまでには時間がかかる。でも落胆することも幻滅することもないし、時間をかけてじっくり探し続ければいい。おおよそろくでもない復讐とか恨みつらみの観念に捕われている奴がいるならば、まずはチャボさんの優しい歌も流麗なギターの調べに耳を傾けてみなよ。おまえらのためにこういう音楽はある。一度聴いたんじゃピンと来ないかもしれないけれど、そういうときは何度も聴いてみるんだよ。特にチャボさんの歌なんて偶然できる音楽じゃないし、意味があって構築されていったタイプの作品だからね。紐解いて聴いていくことで感銘を受けることがいっぱいあるはず。10年経った後にハッとすることすらある(笑)。
物事、そう簡単に進むことばかりじゃない。それはおまえの人生だってそうだし、おまえが斬り付けた(斬り付けようとしている)人間だって結局同じなんだよ。おまえが斬り付けるべきは、本来は他人ではなくて自分自身であるべきなんだよね。でも自分を斬り付ける勇気とかっていうのはないわけでしょう? ただそれは論理矛盾だよね。「誰でもいい」のに何よりもまず自分を斬り付けられないんだからさ。
結局、その程度の論理矛盾に陥るくらいなんだったら、どんな要因があろうともたいしたもんじゃないんだよ。話は最初に戻るけれど生命っていう尊いエネルギーであることを考えたときに、おまえごときにそう簡単に扱いきれるようなものではないってことだ。結局たとえダラダラでも生きながらえて何かを見い出していくしかないっていうね。ダラダラでも生きようぜ。今がおまえにとって最低最悪でもさ、そのうち何か見えてくるかもしれないし、結局無駄死にするだけなのかもしれない。
その危うい境界線上において、何かの発想の転換だったりチャンスになるようなものをあたえてくれるのがアートなんだ。僕にとってチャボさんの『My R&R』は忘れがたいひとつの転換点となったレコードだった気がする。