今、世の中は明けても暮れても新型コロナウイルスの話題で持ちきりだ。

全世界的に類を見ない正にパンデミックと言われるぐらいだ、それは当然の流れなんだろう。

果たしてこれも、それぞれが犯した罪に対しての罰なんだろうか?

 

今回は罪と罰についてをテーマに書いていこう。

まず始めに、「罪に対して人はそれぞれどう捉えているか」話はここからだと思う。

日本という国においては、(当然他の国にも同じ事は言えるんだろうが)まず法律が存在して罪の重さや内容により司法の下、平等に罰を受けるという仕組みがある。

本当に罪の重さや内容に対して、事実平等に罰を与えられているかという点はいったん置いておこう。まず根本に法律があり、一体それが何種類あるのか分からないが、まあ大体の事は網羅されているんだろう。自分達に知識が無いだけでそんな事が罪になるのかということも少なからずあるんだろう。

新しい法律が出来、それに併せて新しい罪も増えるんだろう。

世の中は常に進んでいるからだ。

さて、罪についてだが、日々の生活においては常に起きているのが現実だと思う。

人を騙す・人を傷つける・人命を奪う・人を陥れる・人を憎む・人を疎む・人を蔑む・人を羨む。

憎む・疎む・蔑む・羨む等は感情の一部であって罪ではないのかもしれないが結局はそこから行動に移り罪が生まれるはずだ。それが人間だからだ。

あえて人をと書き示したが、建造物や動物を対象にする法も多数存在はするだろうが今回言いたかったのは人に対する事なのでこういった表現をした。

日々の生活の中でそれが罪として認識され、罰を受けるというのはごく稀だと思う。

単純な話、やろうと思えば黙秘と嘘だけで、相当数の罰は免れるんでないかと思う。

しかし、世の中は面白いもので嘘はいつかはバレて、しっかり後からお仕置きが待っているという結果が大抵付いて回るものになっている。

それでも、人は明けても暮れても罪を生み出していく。

それは何故なのか?

以前にも書いたと思うが、やはり人=欲なのだ。

欲は人間にはコントロール出来ない。欲は感情に勝るんだ。そういう生き物なんだ。

 

ここまで罪の事に関して書いてきたが、結論は罪がこの世から無くなる事はない。

それは自分達が人間であるが故だ。

「罪に対して人はそれぞれどう捉えているか」ここに話は戻るが、罪が無くならないのは罪に対しての認識が軽いということも関係していると思う。それはすなわち罰に対しての認識が軽いという思考にも繋がるはずだ。

そしてそれは紛れもなく事実であり、それが今の世の中を作っている。

罰の重さはそれぞれの国により違うため、一概に軽いとは言えないが日本においては間違いなく軽いと思う。人間が作るものだから道徳心も働くだろうし、更生をさせようという前提があるんだろうが、さっきも言ったが人間は欲に勝てない。もし本当にその罪を悔やみ更生しその後の人生を清く正しく生きたとしても、起こした罪が無くなる事はなく時間が戻ることもない。

人はただ生きているだけで強い責任を持っている、何故なら自分たちが生きるためにたくさんの生命を殺しその上で日々を過ごしているからだ。もっと今自分が生きられている事に感謝しなければいけない。

 

民主主義の日本が罰を単純に重くする事は考えいにくい。

唯一の解決策は罪の考え方を変える事だけだ。

私利私欲のために罪を犯す前に、今の自分はもう十分に豊かで幸福な中に生きているんではないか、考えるべきだ。

罪に大きいも小さいもないはずだ、罰を受けたからといってその罪が浄化されることはない。

責任を取る事と罰を受ける事は似ているようで全く違うものだ。

責任は自分で取り方を決められるが罰は執行者の範疇であるからだ。

日本においては司法の最高責任者が執行者になるのだろうが、あくまでこれも人がやることだ。人には感情に勝る欲が存在する。その同じ性質を持った人が人を裁くというのも個人的には不思議に思う。

少し話が逸れたが、罪(罰)を受け入れる事で人は成長すると思う。

逆説的に言えば罪を犯さないと人は成長出来ないということかもしれない。

周りからすれば大変迷惑な話だが、過去を振り返ってみると案外理に適っているかもしれないと思う。

最も醜いのは罪(罰)を受け入れず現実から逃げ続けることだ。

受け入れるべきだ、既に罪を犯してしまったのであれば。

どんなに不条理な事も理不尽なことも受け入れるべきだ。

それでも自分を幸福と不幸の天秤に乗せた時に少しでも幸福にまだ傾くはずだ。

今まだ生きられているのだから。

そんなものだと思う、人の一生は。

さあ今日はもう休もう。