10月24日
アテーネーに「私が付いているから大丈夫」と言われて、オデュッセウスはようやく睡りに入る。それと時を同じくして、ペーネロペイアが睡りから目覚める。これも一種の精神感応ではないか。その思いは次のペーネロペイアが語る内容によって強められる。
αὐτὰρ ἐμοὶ καὶ ὀνείρατ᾽ ἐπέσσευεν κακὰ δαίμων.
τῇδε γὰρ αὖ μοι νυκτὶ παρέδραθεν εἴκελος αὐτῷ, (20-87,8)
しかし私に神は悪しき夢をお寄越しになった
というのも今夜彼にそっくりのものが私の傍らに寝ていたのです
τοῖος ἐὼν οἷος ᾖεν ἅμα στρατῷ: αὐτὰρ ἐμὸν κῆρ
χαῖρ᾽, ἐπεὶ οὐκ ἐφάμην ὄναρ ἔμμεναι, ἀλλ᾽ ὕπαρ ἤδη. (20-89,90)
丁度軍勢と共に出かけた時の姿そのまま。そこで私の心は
喜びました、夢ではなくもう現実だと思ったので
「夢ὄναρ [onar]」と「現実ὕπαρ [hyupar]」、類音の対義語が対比されている。
それともう一つ興味深いのは90行目の末尾ἤδηの語だ。ἤδηは「既に、もう」の語義を持つ副詞だが、ここではどういうニュアンスなのか。時間的な意味での「既に、もう」ではあるまい。確実性の度合いにおける強さを表す「もう」、日本語でも「もうてっきりそう思った」と言う、その「もうἤδη」だろう。
そうだった。この間旅行で行ったオーベルニュ地方のピュイ、あそこはシモーヌ・ヴェイユゆかりの地だった。哲学教授資格を取得して二十三才ではじめて教壇に立ったのがあのピュイのリセだ。滞在中確か何回かその学校の前を通ったのだが全く思い出さず、気づかなかったのは迂闊だった。
シモーヌ・ヴェイユには「『イーリアス』あるいは力の詩編」と題したエッセイがある。そこに引用されている詩行の仏訳がいい。平易でありつつ原詩の語順を尊重し、ホメーロスの息づかいが感じられる様な気がする。全訳しなかったのは惜しまれる。出色の近代語訳となったであろうに。