そして続きます。

 

πολλῶν δ᾽ ἀνθρώπων ἴδεν ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,

πολλὰ δ᾽ ὅ γ᾽ ἐν πόντῳ πάθεν ἄλγεα ὃν κατὰ θυμόν,

ἀρνύμενος ἥν τε ψυχὴν καὶ νόστον ἑταίρων. (1-3~5)

多くの人々の町を見、心も知り

海で心に多くの苦労を彼は蒙った

彼の命と仲間達の帰還を確保せんとして。

 そしてこうさらにこう続きます。

ἀλλ᾽ οὐδ᾽ ὣς ἑτάρους ἐρρύσατο, ἱέμενός περ:

αὐτῶν γὰρ σφετέρῃσιν ἀτασθαλίῃσιν ὄλοντο,

νήπιοι, οἳ κατὰ βοῦς Ὑπερίονος Ἠελίοιο

ἤσθιον: αὐτὰρ ὁ τοῖσιν ἀφείλετο νόστιμον ἦμαρ. (1-6~9)

しかしそうしても仲間達を守れなかった、望んではいたのだが

と言うのも彼ら自身の非道なる行為によって滅んだからだ

愚か者達だ、大空行く太陽神の牛共を

食ってしまったからだ、そこで神は彼らから帰還の日を奪ってしまったのだ。

 

3・4行目は

πολλῶν δ᾽ ἀνθρώπων ἴδεν ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,

πολλὰ δ᾽ ὅ γ᾽ ἐν πόντῳ πάθεν ἄλγεα ὃν κατὰ θυμόν,

と、対句を成しています。冒頭の πολλῶν・πολλὰ が対応していますし、詩行中央付近のἴδεν・πάθεν、ἄστεα・ἄλγεα も対応しています。

Stanford はこの3・4行目について note two successive instances of the so-called ‘forbidden diaeresis’ after the third foot と注意喚起しています。すなわち

πολλῶν δ᾽ ἀνθρώπων ἴδεν/ἄστεα καὶ νόον ἔγνω,

πολλὰ δ᾽ ὅ γ᾽ ἐν πόντῳ πάθεν/ἄλγεα ὃν κατὰ θυμόν,

です。forbidden とは言い過ぎのような気もしますが、韻律上3/4脚目の詩脚の切れ目に「語の切れ目 diaeresis」が来ることは極力避けられており、ここのように二行それが続くことは極めて稀です。

 そもそも3/4脚目の詩脚の切れ目に語の切れ目が来ることが forbidden diaeresis とされる理由は、ヘクサメーターがそのことによって「三脚+三脚」に完全に二分され韻律が単調になるからだと思われます(日本語で七五調が六+六にされることによって平板化するのに似通っています)。しかしここでは3・4行目の対照、就中 ἴδεν ἄστεα・πάθεν ἄλγεα の対照によってその単調さは破られ、はるかに乗り越えられている感があります。

7行目の αὐτῶν σφετέρῃσιν ἀτασθαλίῃσιν は珍しい措辞です。αὐτῶν と σφετέρῃσινには重複の気味もあります。West はこの詩句を by their very own と訳し to emphasize the voluntariness of their sin と註を付しています。

彼ら自身の voluntariness の強調は、この帰還の物語の背後にありつつも表面化しないひとつの重い問題にかかわっているのかもしれません。というのは、オデュッセウスは大将として部下を大勢(十二艘各数十人)を引き連れ出征し、一人だけ生きて帰るわけですので、結果だけを見れば本来責任を問われてしかるべきとも言えるからです。今「表面化しない」と記しましたが、実は最終歌で殺された求婚者の父親によって

 

τοὺς μὲν σὺν νήεσσιν ἄγων πολέας τε καὶ ἐσθλοὺς

ὤλεσε μὲν νῆας γλαφυράς, ἀπὸ δ᾽ ὤλεσε λαούς: (24-427、8)

(オデュッセウスは)彼ら多くの優れた者達を船と共に引き連れていって

空ろなる船を失い人々をも亡くした

 

と非難されることがあります。幸いなことに非難は広がりを見せることはありませんでしたが、しかしオデュッセウスにとってこれは問い詰められれば申し開きの難しい問題でした。

上記9行目までは詩篇のいわば序文を成しています。改めて見直してみると、そのうち四行(6~9)を費やしてこの「νόστον ἑταίρων が叶わなかった事情」を語っています。詩篇で語られる数ある出来事の中で一つのエピソードとしては特別の扱いです。

量的にのみならず、語り方も力がこもっています。6行目での ἱέμενός περ もそうです。8行目の ἀτασθαλίῃσιν 自体『オデュッセイアー』では主として求婚者達の狼藉ぶりに関して使われる強い語ですし、8、9行目でのより具体的なその ἀτασθαλίῃσιν の中身説明もそうです。先に取り上げた7行目の αὐτῶν σφετέρῃσιν ἀτασθαλίῃσιν のいささか破格の措辞による強調もその一環と理解できます。

詩人は『オデュッセイアー』という帰還物語がはらむこの問題を意識し、詩篇の序文とも言うべき一節であえてこの事実に触れ、事前に問題深刻化の芽を摘んでいるとも言えるのではないかと思われます。