8月19日


第十六歌に入る。 

テーレマコスは豚飼小屋に近づくと犬達が尻尾を振る。オデュッセウスが老人の姿で来たときはあれ程吠えた犬達だ。この犬達はオデュッセウス出征後に生まれ育ったのだろう。それに先ずオデュッセウスが気づき、豚飼も気づく。豚飼は跳び上がり、十年ぶりに遠国から帰郷したに愛し子を迎えたときのように口づけする。そして中に招き入れこう言う。


οὐ μὲν γάρ τι θάμ᾽ ἀγρὸν ἐπέρχεαι οὐδὲ νομῆας, (16-27)

田舎にも牧人のところにも滅多にお出でになることがないので


ἀλλ᾽ ἐπιδημεύεις: ὣς γάρ νύ τοι εὔαδε θυμῷ,
ἀνδρῶν μνηστήρων ἐσορᾶν ἀΐδηλον ὅμιλον. (16-28,9)

町にばかりおられて、きっと心からお好きなのでしょう

求婚者の男達の厭わしい群をご覧になるのが


主人に向かって「何と辛辣な皮肉」ともとられそうだが、これはむしろ親密さと真情の現れだろう。こういうことはある、純朴な人の愛情表現としてわざと乱暴な言葉遣いをするということが。「何言ってるんですか」とか、「絶対許しませんよ」とか。

それに対する、テーレマコスの応えの冒頭ἔσσεται οὕτως, ἄττα(16-31):逐語訳すれば「あるだろう、そのように、おじさん」をどう解釈するかが面白い。

一つは、豚飼が小屋の中に招き入れたことを受けて、「そうしよう、おじさん」 と応えたとするもの。もう一つは、豚飼の求婚者達云々という皮肉を受けて「そういうことにしておこう、おじさん」と応えたとするもの。

両方可能で、前者の方が穏便かつ普通の解釈かも知れない。しかし後者も捨てがたい。豚飼の皮肉が親密で真情こもったものであることを知っているテーレマコスが、「わかったわかった」と応じたわけだ。先の予言者の願人への対応でもそうだったが、テーレマコスには若いが鷹揚なところがある。ここも「そういうことにしておこう、おじさん」と鷹揚さを示したととりたい。


オデュッセウスやテーレマコスに対する豚飼小屋の戸口での犬達の何気ない場面は、後の名場面での伏線をなしていると思うが、あまり先走るのは控えよう。詩編でも物語でも、後の出来事を引き合いに出すのは避けて、できるだけ歌われ語られる順に味わい理解していくのがいいと思う。それが詩人・作者の望みであり意図なのだから。