10月3日

その小生意気な女召使いに対しオデュッセウスはこうやり返す。

μή πώς τοι δέσποινα κοτεσσαμένη χαλεπήνῃ,
ἢ Ὀδυσεὺς ἔλθῃ: ἔτι γὰρ καὶ ἐλπίδος αἶσα. (19-83,4)

どうかして奥方がお怒りになって懲らしめれれぬとも限らぬ

あるいはオデュッセウス様が帰って来られぬとも(限らぬ)、まだその希望はまだあるのだからな

 それに、立派に成人されたテーレマコス様も女達の不埒に気づかれぬはずがないぞ、と。

 ペーネロペイア、テーレマコスと並べて自分、オデュッセウスに触れている。何回か似たような場面があったと思うが、こういう所がうまい。素知らぬ顔で言ったのだろう。こういう役をやらせるとしたら現代の俳優なら誰がいいのだろう。

 「希望」と訳したἐλπίδος αἶσαは、直訳なら「希望の運命の分け前」とでもすべきところだ。表向き単に抽象的に「望みがある」と言っているように見せて、実は暗に「ホラお前の目の前にその分け前があるぞ」と戯れているということはないだろうか。ちょっと穿ちすぎかも知れないが、オデュッセウスならやりそうなことではある。

 昨日と今日「小生意気」という言葉を使った。この「小」は指小辞といわれるものだ。この指小辞のニュアンスは面白い。

まず、「小生意気」の様に卑しめ貶す場合がある。「小憎らしい」や「小賢しい」がそれだ。「ちょっと」の意味で「小腹がすいた」や「小手をかざす」がある。さらに「ちょっとだがよい」の例もある様に思う。「小意気な」とか「小綺麗な」とかがそれだ。「小股が切れ上がった」もこれに入るかも知れない。前に触れた沖縄の「グワー」の持つニュアンスも似ている(四月二十一日の項)。

イタリア語は特に指小辞が豊富なようだ。スパゲッティーやペペロンチーノもそうらしい。ところでホメーロスには指小辞があるのだろうか。ちょっと思いつかない。これも宿題にしよう。