昨日の記事の続きになりますが、
人生を辿る | タケシのありのまま日記 (ameblo.jp)
何があっても大丈夫、
みたいに信じられるようになるためには、
つまるところは、信仰がカギになると思います。
信仰がなければ、
とてもとても、そんな境地にはなれません。
ちなみに、信仰とは、
「神への信頼」
という意味で使っていますが、
あらためてネットで検索すると、
フムフム・・・
以下、Microsoft Bingの回答です。
「信仰」と「信心」は、どちらも神仏を信じて崇拝する意味で同義語ですが、ニュアンスに違いがあります。
「信仰」はキリスト教に由来する言葉であり、自分以上の存在に対して敬いの念をもって行うことを指します。
一方、「信心」は仏教に由来する言葉であり、自分自身の心の中におられる仏さまに対して祈ることを意味します。
このように、「信仰」はキリスト教を連想させる言葉であり、「信心」は仏教を連想させる言葉です。
また、「信仰」はキリストに対しても用いられますが、「信心」は釈迦よりも仏全体を対象とするように感じられます。
以上が「信仰」と「信心」の違いです。
なーるほど。
ということは、私の言う「信仰」とは、
意味合い的には、信仰と信心のミックスのようなニュアンスです。
ちなみに、信仰と言うと宗教とイコールに見られることが多いように思いますが、
私の場合、宗教は嫌いなので、
宗教は関係ありません。
宗教とは、それぞれ神を解釈し、偶像化して、
神の模倣品を作り上げたものです。
で、私の場合、昔から宗教は好きではありませんでした。
だって、愛や自由に反する宗教があまりにも多いから。
ただ、仏教は子供の頃から身近にあったことと、
比較的、大らかで寛容な印象があったので、抵抗感は少なかったです。
神とは、愛であり自由である
ということを、昔から、なんとなく信じていました。
その、なんとなく信じていた、
心の中の神の記憶を思い出させてくれたのは、
過去のスピリチュアルや精神世界の学びのほか、
奇跡講座(奇跡のコース)という本です。
別に無理やり信じる必要はなく、
ただ単に、忘れていた神のことを思い出しただけ。
心の中に埋もれてる神の記憶を思い出す。
そういう意味では、信心ともいえるかな?
忘れているのは、思い出したくないという抵抗が心の中にあるためで、
無理に信じようとすると苦しいだけです。
だから、神や宗教のネタは、とてもセンシティブです。
人それぞれの道があり、
タイミングがあるので、
焦らずに、歩くだけです。