前回は、「存在価値を疑う心」について書きましたが、
成長しようという気持ちも、
実は、自らの存在価値を疑っているからで。
努力して、何かになろうとする必要なんてない。
好きでやってるんだったらいいんですけどね。
クィーンのフレディ・マーキュリーも、
ものすごい寂しがり屋だったと言いますが、
きっと、自らの存在価値を疑っていたのだと思います。
ボヘミアンラプソディの歌詞の中にも、
「生まれてこなきゃよかったと思う」
とありますし。
だけど、そんなフレディが、
なぜ、あんなにパワフルなパフォーマンスが出来たのか?
何か、突き動かされるような衝動があったのだと思います。
それは、映画の中のセリフにもあったように、
俺が何者かは、俺が決める
つまり、誰にも縛られない。自由だ。
クィーンの曲には、
"Free" が歌詞やタイトルにいくつも含まれてますね。
そして、私がボヘミアンラプソディを観て、
号泣したのも、
このフレディの衝動を感じ、
共振したから。
この自由への衝動は、
心を知るうちに、
徐々に強く感じるようになりました。
最初は、
それが何なのか理解できず、
無視していましたが、
だんだん、表に出てくるようになりました。
一つ、思い出深いエピソードがあります。
ある日のこと、
子供の頃の出来事を、ふと思い出しました。
それは、私がまだ幼稚園ぐらいのころ。
祖母の家で、姉二人と遊んでいたときのこと。
その遊びとは、こんな遊びでした。
家の柱に、
私は、姉二人に紐で縛り付けられ、
そして、そこから私が脱出できるか?
という遊び。
それが楽しかったんですよねぇ。なぜか。
で、その出来事を思い出した時、
私は、理解しました。
あぁ、俺の人生は、
縛り付けられた人生から、自由になることだったんだ・・・!
それは、そんな気がする・・・みたいな感じではなく、
そうだったのか!という衝撃とともにやってきました。
子供の頃、
縛られることを自ら望み、
そして脱出することを楽しんでいたけど、
いまも、まったくそうじゃないか・・・。
苦しんでいるように見えるけど、
自ら縛られることを望んでいたんじゃないのか?
ってことは、
自由になることを楽しんでいるのか・・・?
そんなことがあって、
自由への衝動はますます強く感じるようになりました。
自由になるということは、
言葉を変えると、ありのまま、でもありますね。
そう。ありのままでいたい。
ただ、この衝動は強いものではあるけれど、
その強さゆえに、
恐怖を感じることもあります。
いやいや、さすがにそれはヤバいでしょう。。。みたいな。
でも、そんな恐れも、
少しずつ手放しているところです。
特に、ボヘミアンラプソディで、
フレディに背中を押された感は強いですね。
こんなふうに、
心の中には、
自らを否定する部分と、
自らありのままでいたいという部分があって、
それが複雑に絡み合っているので、
とても難しいです。
でも、それが自分なので。
自分を知ることが、
今ここに私がいることの意味だと思います。