愛について | タケシのありのまま日記

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旧名から変更しました。

いつも、あれも書きたい、これも書きたいと、

いろいろなことが浮かぶのですが、

実際にこうやって書いているのは、

ほんの僅かです。

浮かんでも、すぐ忘れちゃったり。

いざ書こうと思っても、なかなか書けなかったり。

先日、ふと、

「愛」について、書きたいと思いました。

この世界では「愛」について頻繁に語られているけど、

でも、ほとんど、まったく理解されていない・・・。

それは私もそうで、

全く理解していなかった。

でも、心を鍛えたり、学んだりするなかで、

徐々にその本質について、

理解が深まってきました。

その理解を、さらに深めるために、

愛について書いてみたいと思ったんです。


そもそも、「愛」についてなんて、

ハードルが高すぎて、書きづらいし。

心理的な抵抗があります。

でも、その抵抗を、

心の中の抵抗を見逃してはいけないですから。

その話は、また長くなるので、また今度。


で、愛ね。

本題です。

「もう、私を愛していないのね!」

「君を愛しているよ!」

といった、恋人や夫婦の間に交わされる言葉に出てくる「愛」は、

「愛」ではありません。

言葉を変えると、さっきの例は、

こうなります。

「もう、私に対してあなたは犠牲を払ってくれないのね!」

「君に犠牲を払うよ!」

端的に言って、

カップルや結婚というのは、

ギブアンドテイクの関係であり、

取引です。

私はこれだけ犠牲を払うから、

あなたも犠牲を払ってね。

だから、相手が犠牲を払ってくれないと、

「私はこんなに尽くしているのに!」

というセリフが出てしまう。


なお、いわゆる、「無償の愛」は、

本当の愛に近いものだと思います。

無償の愛は、取引ではないですから。

犠牲を求めないわけです。

与えるのみ。

だから、そんなの理想であって、

実際には無理!

というのが大半の人の反応です。


が、そもそも、

愛している、ってことを、

相手に表明しなければならないようなものは、

愛ではないので、

そこに無償の愛が入り込む余地はありません。


大半の夫婦が、ある程度の年月になると、

取引関係に疲れてきて、

離婚したり、

表面的な関係が悪化したり、

そこまでいかなくても、

もう冷めた関係だったりします。

それも当然だし、

別に、悪いことじゃない。

逆に、お互いに自分らしくいられて、よいことだ思います。

また、

寂しさや、性欲や、その他色々な要因で、

他の人に目移りしてしまい、

不倫してしまう人も多いですけど、

これも当たり前だと思います。

そもそもなぜ、不倫が悪いことなの?

取引を破ったという意味以上の意味はありません。

人は、いくつになっても恋をするのが自然なんじゃない?

そういえば、

先日、一人の男性が二人の妻を持つという例が紹介されていましたが、

とても共感できる話でした。

一人に限定しなければならない理由はなく、

独占すべき理由もない。

独占って、愛じゃないですから。

束縛です。


ただ、「相手を愛さなければならない」というのも違う。

愛は、強制されるものじゃない。

だから、束縛したきゃ、すればいい。

でも、やめたほうがいいのは、

誰かを束縛するということは、

自分を束縛することであり、

自分を束縛するということは、

必ず不幸であるから。

束縛の話になると、今度は「自由」がテーマになりますね。。。

それはまた今度。


ってなわけで、

ウチの夫婦関係も、まぁ様変わりしました。(笑)

昔、このブログにもたぶん書いたけど、

自分はカミさんを本当に愛しているのか自問自答したこともあったっけ?

「愛している」という答えを心の中に必死に探しましたよ。

無いってことは、絶対に認められませんでしたね。

だけど、そのころから、

「犠牲」はイヤだ!!

って、心では叫んでたんです。

今から思えば。


・・・なんだか、思っていたことの半分も書けてませんが、

ひとまずここまで。