島津義弘公 | タケシのありのまま日記

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旧名から変更しました。

最近読んだ本に、「歴史街道」という雑誌があります。

特に歴史が大好きというわけではないのですが、立ち寄った本屋さんでふと見かけ、気になって立ち読みしたところ、そのまま買ってしまったのです。

その理由は、表紙に出ていたのが「島津義弘」だったからです。

島津といえば、郷土鹿児島の大名ですが、一般的に名が知られているとすれば、幕末に活躍して昨年の篤姫でも重要な役どころだった、島津斉彬公ですね。

が、それ以外の島津家当主はあまり知られていないと思います。なので、島津義弘公が表紙に取り上げられているのが少し意外だったので気になって読み始めたのです。

ただ、私も地元でありながら、島津義弘公のことをあまり知りませんでした。戦国時代の島津家当主だった人、ぐらいでしょうか。

そして読んでみたら、面白かった!

島津義弘公という自分物の凄さに惹かれたからです。

勇敢で、知略に長け、部下の将兵から絶大な信頼を得ており、ずば抜けた統率力を持ち、情に厚い・・・

まさに英雄と呼ぶにふさわしい人物だったのです。

私は元々、こういう英雄タイプに惹かれるところがあるのですが、その人を惹きつける力には憧れますね。。。


ところで、島津家は鎌倉時代から薩摩、大隈、日向の三州を守護する歴史のある家柄ですが、意外にもこの戦国時代初期の頃は、薩摩の中のごく一部しか実効支配していなかったそうです。

そして、この義弘公をはじめ兄の義久公などが活躍を始めると、みるみるうちに薩摩を平定し、大隈、そして日向までを支配下に置くようになったそうです。

義弘を初めとした島津軍の強さは抜群で、少数の軍勢で倍以上の敵を次々と倒し、戦国時代末期には九州のほぼ全域を支配下に治めました。

しかし、豊臣秀吉が20万以上の大軍を率いて九州遠征を行い、さすがの義弘公もここではなす術が無く、最終的には降伏することになります。

そして、朝鮮半島へ攻め入った文禄の役(1592年)、慶長の役(1597年)では、義弘公自身が出兵し、数々の武勲を立て、豊臣政権から大きな信頼を得るまでになりました。

なお、この時の逸話が印象に残りました。
日本軍の各部隊では、朝鮮半島での寒さに耐えかね、凍死者が多数出ていたのですが、島津隊では1人も出なかったそうです。その理由は、義弘公と将兵たちがみんなで一緒に囲炉裏を囲んで暖を取るなど、部下への気配りがあったからだそうです。

最後のエピソードが一番有名かもしれません。
関が原の戦いです。
島津氏は、本来は徳川豊臣どちらからも距離を置いていたのですが、ちょっとした行き違いで西軍として参加することになりました。そしてご存知のように西軍が敗れ、島津隊は周りを東軍に包囲されました。
そこで取った行動が、徳川本陣を中央突破し脱出するという戦術でした。

この話自体は私も昔から知っていましたが、破れかぶれで逃げただけ・・・というぐらいに思っていたところ、全然違いました。義弘自身もう60歳を過ぎた高齢にもかかわらず、その決断力と統率力、そして部下からの信頼のお陰で、無事に薩摩に帰還することが出来たのです。


こういったことを改めて知ることが出来て、島津義弘公の人物像や、島津家の歴史、そして郷土の歴史を理解することが出来ました。

やっぱり、地元の歴史というのは気になりますね。また他の時代の話も読んでみたくなりました。