今日は歎異抄の紹介です。
「私訳 歎異抄(たんにしょう)」五木寛之著 東京書籍
この本、広島に帰省した際に義父さんが読んでいた本なのですが、先日広島から送られてきた荷物に一緒に入っていました。私が興味深そうに見ていたので、読み終わった義父さんが送ってくれたのです。
歎異抄は、浄土真宗の親鸞聖人の伝えを記したものです。って、私もそれまで全然知りませんでした。(^^;
内容はとてもシンプルで、あっという間に読み終わってしまいます。
でも、なるほど・・・という内容でした。
いちばん印象に残ったのが、「他力本願」という言葉。
今まで「他力本願」というのは「他人任せ」の意味しか知りませんでしたが、本来は浄土真宗から来た言葉で、全く違う意味だったのです。
「本願」は、阿弥陀仏が善悪を問わず、生命のある全ての存在を極楽浄土に往生させようとする誓願のこと。つまり、「他力本願」本来の意味は、自分の修行の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力によって成仏することである(言語由来辞典より)
この考え方って、これまで学んできたスピリチュアリズムと重なる部分が多いなと思いました。
仏様を信じてただひたすら祈るのみ。後は自分の手から手放して仏様に任せてしまう、というように解釈したのですが、「拘りは捨てる」「物事に善悪は無い」というスピリチュアリズムの教えと通じるものがあると思います。
親鸞聖人は、ひたすら修行をすることによって悟りを開く、いわゆる「真言密教」では煩悩を抱えた多くの人は救うことは出来ないと言い、ただ念仏を唱えるだけの簡単な方法で成仏できると唱えました。
昔は、修行が厳しい系統の仏教(真言密教)が由緒正しい本来の宗教で、修行に耐えられない凡人のためにいわば「お手軽版」仏教として浄土真宗があるのだと思っていました。
だから、真言密教が格上、浄土真宗は格下、という意識があったのですが、歎異抄を読んでそれは間違いだと思いました。
どちらが優れているという訳ではないのですが、親鸞聖人の教えはとてもシンプルなので、そのシンプルさが本当の真実であることを示しているようにも思えました。
子供の頃から何気なく手を合わすと「南無阿弥陀仏」と呟いてしまいますが、このような深い意味があったとは~と今更ながら思いました。
最後に、この本を贈ってくれた義父さんに感謝したいと思います。