因果展望 | I want to say by all means

因果展望



 仕事に私生活と、

 毎日を過ごすなか

 非常に深く

 考えさせられることが多いです。



 さまざまな事に応用し

 いろんな視点を持って望むべきですが

 タイトルに挙げた「因果」は

 原因と結果。


 物事には必ずその原因と結果があります。


 そして「展望」。

 
 さまざまな角度をもって見渡すこと。



 どんなに些細なことであっても

 必ずこの両方は

 無意識であっても必要です。



 ただ最近は

 この両方を用いることが嫌われます。



 物事の原因と結果を精査して改善する

 という作業を遠ざけようとします。


 また、

 その取り組みを行うものを

 「面倒な人」「余計なことをする人」

 として

 何もやらない人に限って

 そういう批判と邪魔だけは一生懸命行います。



 
 これ以上の細かな部分ははしょります(笑)
 

 例えを挙げますが、

 色々なことに置き換えて考えると

 わかりやすいのではないかと思いますが、

 わかりやすいかわかりにくいかは

 それぞれなのかもしれません。




 例えば、

 蛇口が壊れて水が出っぱなしだったとします。

 そのままにしておけば

 当然ながら水浸し&メーター上がりっぱなしです。


 では蛇口を修理するのか?

 というところで

 何が原因で壊れているのか?

 ということを考えます。
 

 継ぎ目が壊れているのか、

 中のパッキンが劣化しているのか、

 パイプ自体がひび割れているのか

 などなど・・・

 色々な原因があります。


 この原因を突き止め

 蛇口を交換するのか、

 パイプを交換するのか、

 パッキンなどの部品交換なのか、

 状況に合わせて

 「水を止める」または「正常な蛇口に戻す」

 という作業を行います。



 行うはずです。

 
 普通は。




 蛇口の話であれば単純ですが

 これがさまざまな状況に置き換えられた場合、
 
 社会生活では意外と

 とんでもない対応をしていることがほとんどです。



 「蛇口が壊れて水が出っ放しだから水浸しだ」

 という状況でありながら、

 「蛇口は壊れてしまっているのだから仕方がない」

 と、中途半端に結論づいて

 改善作業が止まってしまったり、

 「水が出っぱなしでも気にならない方法をとりましょう」

 という、

 斜め上理論までもが横行しています。


 
 要するに、

 問題の原因となる当事者に対してのアクションを嫌い

 問題を改善することよりも

 当事者を遠ざけることや隔離することを考える

 ということです。


 原因となる者への改善要求には

 必ずトラブルが付きまといます。


 コレを問答無用に嫌い、

 嫌わない人が立ち向かおうとしても

 それはそれで「大人気ない」だのと

 よくわからない理由で

 その人までもが遠ざけられます。


 
 要するに

 ジャングルジムで怪我をしたから

 ジャングルジムがなくなれば怪我をしない。

 という考え方。


 あるの応用を求めるのではなく、

 はじめから無いを選択する。


 
 蛇口の話に戻れば、

 問題に対してきちんと向き合えば

 原因や改善方法も導き出すことができ、

 その結果、

 問題が起こる前よりも良い状況にもなりえます。

 蛇口が新品になったり。


 しかしながら

 繰り返しになりますが

 問題と向き合わない、

 原因を糾弾しない方法を選択すると

 その問題と原因はいつまでも残ったままになります。


 どんなにごまかしても

 見てみないフリをしても

 水は出っ放しなのです。


 一時的に遠ざけることができても

 また何かのきっかけで

 原因は原因として残っているので

 何かしら影響してきます。



 日常生活の問題として当てはめたとき、

 蛇口に当たる人物に対して

 どうアクションするのか、

 壊れた蛇口に対して

 「壊れているから修理しましょう」

 ということが

 そんなにいけないことなのか。


 
 






 
 
 いろんなことにあてはめてみれるひとは

 あてはめてみましょう。





 めんどくさくなってきたのでこのへんで。
 
 

 


 
 
 






 おしまい