昭和20年8月15日、私は中学1年生であった。
夏休み中で学校のプールに泳ぎに行っていた。
韓国の京城、今のソウルにいた。
天皇陛下の玉音放送を運動場の炎天下で何事かと気をつけの直立不動の姿勢で聞いた。
ラジオの声はよく聞こえなかったが、何となく『戦争に負けた』ということが解った。
外地での戦争体験は、何不自由なく、空襲はあったが爆弾も焼夷弾も落とさない偵察のようなもので、食糧事情も良くて普通の生活が続いていた。
ただ、小学校の5年くらいから教練まがいの訓練があって、
中学1年の夏休み中の宿題に『そもそもわが国の軍隊はーーーー』に始まる長い長い軍人勅諭の暗記が出ていて、そろそろ覚えないとと思っていた時の終戦であった。
お陰で、全然軍人勅諭は覚えていない。
戦争体験のある世代もだんだんと少なくなってきたが、
私など戦争体験と言えるようなものは何一つ無い。
ただ、中学の上級生は学徒動員で出征するのを送りに行ったりはした。
『お国のために立派に死んでこいよ』と何の疑いも無く見送りの下級生は叫んでいた。
そんな時代だったのである。
国のために戦うと言うことについては、みんながそう思っていた。
そんな教育だけは、内地よりも進んでいたかも知れない。
内地、今の日本をそんな呼び方をしていたが、内地は空襲で大変だったと言うのは何となく聞いていた程度である。
明石の空襲では、叔父と叔母が無くなった。
ビルマの戦争で母方の伯父が戦死した。
戦争は大変なことだと思ってはいたが、本当にそう思い出したのは、昭和20年終戦の年の12月に明石に引き揚げてからである。
小学生の低学年のころ帰省して、知っていた明石はそこに無かった。
見渡す限り焼け跡だった。
本家の庭には1トン爆弾が三つも落ちて、直径20メートルほどの円錐形の池になって水がたまっていた。
焼夷弾は、数えることが出来ないほど地面に突き刺さっていた。
米も無く、闇米が1升100円もしてびっくりした。
朝鮮では1斗100円だったのに。
そんな高い米が食えるわけは無く、なんば粉のパンやサツマイモなどが主食であった。
中学時代に腹いっぱい飯を食ったのは覚えていない。
高校になって野球部の夏の合宿が初めてだったような気がする。
2年のとき北陸に遠征に行ったらお土産に米を1升ずつ貰って、大事に持って帰った。
そんなまさに廃墟から日本は立ち直ったのである。
いろんな経験をした。
一生のうちにこんな経験をすることは、これからの世代には不可能だと思う。
戦争は大変である。
平和のあり難さに慣れてしまって、いまさら感じないそんな世の中である。