今朝も大分県の教員採用汚職がトップ記事である。
確かに問題ではある。
こんなことがあってはならないと思う。

然し、一方でこんなことは世間の常識として、権力者や職位のある人の特権として許されていたような気もする。
日本はそんな社会であった。
議員と言うのは、個人や地元の願いの 『口利き役』 だと言うことで容認されていたようにも思う。
いい医者に手術を頼むときには礼金が要る、不思議だが常識のように言われてきた。


私自身を振り返ってみても、私自身が頼んだわけではないが、学校に入るとき伯父が議員に頼んだようである。
学校は自分では、頼んだから入学できたとは思っていない。自分で入れたと思っている。

川崎航空機にも当時の副社長のコネでの入社である。
特に就職難の時代であったから、助かった。
これは間違いなくコネのお陰で入社できたと思っている。
そんなことで、会社では紹介者に恥をかかさぬようにと、ずっと最後までそんなことを思って仕事をしていきた。
少なくとも、会社に迷惑などかけてはいないと思っている。


今回の事件でも、確かに頼んだ人、頼まれた人はいる。
その人たちの責任を問われるのは、今の時代仕方がないのかも知れない。
然しその結果教員になれた人が、何年も教員を現実にやっているのに、その責任を問われて止めねばならぬと言うのは、なんとなく納得できないのである。
その人が頼んだわけでもないだろう。

今出ている事件は氷山の一角である。いつの時代まで遡ればればいいのか?


こんな社会だったのである。それをある程度許してきた社会の風潮があった。
個人の問題よりはそれが問題なのだと思う。
それを改めるのに異存はないが、巻き添えを食った個人にまで行くのはどうかと思うのである。

昨日だったか、長銀の経営者が最高裁で無罪になった。
当時の大蔵省のお上には何の問題もなく、お上の指示でもないが、指示のようなものにしたがって事を処理した個人が罪になるのはおかしいという判定の無罪である。
これもお上と企業の関係の、表にはあまり出ないなんともいえない風潮や慣習である。


世の中はどんどん変わる。
今の議員さんは、こんな頼まれごとはしないのだろうか?
そんな頼まれごとも処理できないような議員さんはたいしたものではないとは言われない時代かも知れない。
この近くのいろんな施設も大物であった『あの人のお陰だ』とはよく聞く話である。
これは決して悪い話ではないのだが、地元や人の頼まれごとも、あるいは希望も一切聞けないというのも、なんとなく味気ないなと思ったりする。


三木市役所などでは、一切こんなことはないのだろうか?
どうですかと聞いたらどんな答えが返ってくるのだろうか?