1988年

1982年ごろカワサキの二輪ももう終わりかと思われたような事業の危機的状況から6年が経って、事業はほぼ安定し新しい時代へと移っていった頃である。


私は企画から移り、事業部の営業部門を担当していた。
大分直入町ののテストコース用地にサーキットを造ろうなどと提案して、故岩崎君らと走り回っていた。

レースでは宗和が世界選手権で2位になったり、遠藤さんのフランスチームが3位に入ったりしていた。


ジェットスキーが世界的に好調でアシックスと組んで専用の靴を開発したり、ソウルオリンピックの開会式の当日、世界のジェットスキーチームを組織してハンガンでのデモンストレーションを行なったりしたのもこの年である。


8月には高橋鉄郎さんとKMCのデーラーミーテングに出席している。
百合草さんが社長の頃で、懸案であったKMCの累損もその年で消える見通しであった。
その頃から、事業部の組織人事の話がいろいろあって、『国内をやってみないか』と言うような話も出かけていた。


9月には再び高橋さんとヨーロッパを廻っている。
ケルンショーやドイツのデーラーミーテングがあって、立派なお城に泊めてもらったりした至極のんびりした旅であった。
デユッセルからアムスへアウトバーンをBMWのレンタカーを走らせたりしている。

事業も一段落して安定し、82年からの目標もほぼ達成できてのんびりと遊んでいたといってもいい頃であった。




この年の10月、新しい辞令が出た。

国内市場担当である。
当時の社名はまだ『カワサキオートバイ販売(株)』 通称『カワ販』
高橋さんが社長で、その専務を命じられた。

高橋さんとの約束は、
1.国内を事業部の主力市場に育てること
2.販売目標7万台、売上高400億円、事業部への限界利益100億円

実績43000台、250億円の頃だから相当過激な目標ではあった。
3度目の国内担当であったし、前回のような経営再建といった悲壮なものではなかったので、目標は大きかったがそんなに気にもならず、この目標を内外に宣言してスタートしたのである。

その基本対策は『カワサキのイメージの向上』であった。

いい商品に恵まれ、それ以上にいい仲間に恵まれて、この目標は達成できたのである。


このブログで、『7万台への挑戦』という新カテゴりーを造って、1988年10月から時系列で、このプロジェクトに参加頂いた仲間たちを思い出しながら3,4年間を振り返ってみたい。
幸い旧い日記帳があるのでほぼ正確な思い出となるであろうと思っている。