この1週間で4回、大喜利の稼動がありました。
ヒリつく勝負だったり、バラエティ的にワイワイやったり、やるのではなく教える側だったり、実験的な企画だったり様々です。
どれも楽しかったですが、ここに来て1つの考えが出てきました。
それは、「やりすぎるとよくないかも」です。
簡単に書くと、「人間味がなくなる」気がするのです。
ノリやその場の空気を見てではなく、経験や理屈によって答えを導き出すマシーンみたいになってしまう。
その人が何が好きで何が嫌いか、どういうものを面白がっているか、いわば性癖のようなものが滲み出るのが人間味のある大喜利だと思います。
後はまあ、世の中の「見たい」という需要以上に、プレイヤー側の「やりたい」という欲求の方が強くなっている気もします。供給過多というか。
ネタみたいに準備がいらないし、ギャグみたいに全身で滑ってしまうようなリスクもないし、比較的、手軽な演芸の形ではあるでしょう。
今や雀荘やボードゲームカフェのように、一般の方がふらっと立ち寄って大喜利を楽しめるスペースがあると聞きました。芸人だけのものじゃないのです。
少し話は変わって、10年以上前だと思うのですが、一時的に「人狼」というゲームが流行りかけた時、競技化し始めたのが苦手でした。
ロールプレイを置き去りにして、理屈のみで進めていく感じ、私はどこかにコント要素というか、感情や隙が欲しかったのです。
アプリやTVゲームもそう、やる前から、詰まる前から攻略サイトを見たりして効率よく、いち早く進めることだけを求めるのは性に合いません。
個人で楽しむならまだしも、それをそうじゃない他人に押し付けたりマウントを取ったり、あなたのその行動は入り口を狭め、業界の発展を邪魔してますよと思ってしまいます。
もちろん、競技化、効率化したものを片っ端から否定したいわけではありません。
お笑いの賞レース然り、感動というのは無駄を削ぎ落として真剣に向き合うからこそ生まれるわけですし、私自身、ガチ大喜利大会みたいなのは大好きです。
でもおそらく、「全賞レースの予選、全てのネタを見て研究した」だけの人のネタはつまらないでしょう。
インプット、アウトプットを繰り返すだけでは見えてこないものもあるんじゃないか、一旦距離を置いてみることで新たなステージに進むこともあるんじゃないか、みたいなことです。
といっても、呼ばれる以上は行くし、聞かれれば答えます。老害みたいにならないよう、気を付けます。