今から何十年前の事だろう。歌枕の旅をして東北の山奥、人忘れずの山、不忘山の麓にある小さな温泉町を訪ねたことがある。
 
 湯煙が所々にたなびき、温泉旅館も数件のみの、人通りもほとんどないひなびた温泉町だ。

 温泉町の一番下にお土産屋を見つけて立ち入った。

 客のいない店の中には、椅子に座った老婆とその側に立つ若い女性、恐らく嫁いできた嫁さんとが待っていた。

 愛想も優しさもない白髪の老婆は座ったままに嫁に指図する。

 僕はお店で作ったという一房の笹団子を買った。

 嫁は、若かった僕よりも十歳は年上と思えた。けど、化粧もしていないながら、山奥のひなびた温泉には不釣り合いな、やけに艶かしい、大人の女の色気があった。

 簡単な言葉のやり取りの末、僕は笹団子を手にして店を後にした。

 店を出てからも、老婆の口うるさい小言が、店の外まで聞こえてきた。素直に返事をする嫁を気の毒に感じた。

 あれから何十年たったのだろう。

 再び、陸奥を訪ね、同じ店の立ち寄り、同じように笹団子を買う。

 一目であのときの嫁さんと分かる女性がひとり応対する。

 「三十年ぶりに、この温泉に来たんですよ、何もかも変わらないですね、この辺は。あなたも変わらない。」そう僕が言うと

 「あなたも三十年前と、全然変わらないですよ」と女性は言う。

 「え、三十年前に、僕は、確かこの店で一度だけ、笹団子を買った。」

 「そう、あの時も一人でしたよね。」

 僕は老いてしわが目立つ彼女の顔をまじまじと見つめた。彼女も澄んだ大きな瞳で僕を見つめている。

 「不思議ですね。」と僕が口を開くと

 「そう、不思議ですね」と答える。

 僕は、あの時と同じように店を後にする。

 振り向くと、店の中では彼女が一人、あの時の老婆が座っていた椅子にもたれ、笑顔で手を振っていた。