内外の史料に現れる「大宰府」とは何か | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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大宰府は7世紀の初めに、大陸に向けた日本の玄関口としてその前身ができた、大和朝廷の出先機関である。当初は那の津、すなわち博多にあったが、663年の白村江の戦いで日本軍が唐・新羅連合軍に大敗した後、唐の侵略を恐れた大和朝廷が大宰府を移転した。大宰府は約15km内陸の、現在の大宰府遺跡の場所に後退し、周囲には水城などの防衛施設が築かれた。しかし那の津にも、迎賓館である鴻臚館など一部の施設は残された。この内陸移転後の大宰府を、ここでは便宜上、「大宰府政庁」と呼ぶことにする。

 

さて、元寇の論議では、元や高麗の史料に出て来る「大宰府」は自動的に大宰府政庁と見なされることが多い。また、この言葉が出て来ることをして、元軍の作戦目的が大宰府政庁の占領にあったことの証拠とされることも多い。しかし本当にそうだろうか。元・高麗の史料に出て来る「大宰府」の意味を検討して見よう。

 

中国人の「大宰府」

 

元は、蒙古人による中国国家として、中国人の地理概念を受け継いでいるのであるから、中国人の「大宰府」を調べることは意味のないことではない。さてここに、「寧波寄進碑文」と呼ばれる碑文がある。これは元寇の時代より100年ほど前に、那の津に住んでいた宋人の商人が、故郷の寧波のお寺に寄進を行って、その旨を石碑にして境内に立てたのが残ったものである。三つあるが、そのうち二つに「大宰府」が出て来る。下記(1)(2)である。

 

(1)日本国太宰府博多津居住弟子丁淵、捨身十貫文砌路一丈功徳、奉献三界諸天、十方智聖、本宅上代,本命星官、見生眷属四惣法界衆生同生仏果者 乾道三年四月日(註1)


(2)日本国太宰府居住弟子張寧、捨身砌路一丈功徳、奉献三界諸天、宅神香火、上代先亡、本命元辰、一切神祇等 乾道三年四月

 

(1)は文章中にある丁淵という名の商人の寄進碑文で、「日本国大宰府博多津」に居住したとある。「大宰府」は「博多津」の上位概念である。今日風に言えば「大宰府広域市・博多区」という概念であろう。博多津は、同時に大宰府でもあったのだ。(註1:乾道三年は西暦1167年)

 

(2)は同じく張寧という商人のもので、これにも「大宰府」があるが、「博多津」はない。しかし上記した丁淵の例に照らせば、この太宰府もまた博多を意味する可能性が高いであろう。このように中世の中国人にとって、「大宰府」と言えばそれは「博多」のことだったのである。

 

高麗人の大宰府

 

元寇に深く係わった高麗人は、「大宰府」という名称をどのように認識していたのか。高麗史にそれを窺わせる文章がある。忠烈王世家の至元十八年(註2)七月の記事で、弘安の役に敗れて帰国した金方慶が、部将を遣わして忠烈王に報告したことを述べた文章である。

(註2:至元は元の元号で、十八年は弘安の役の年)

 

「己酉、王至自合浦、元帥金方慶使中郎将朴[囚/皿]奏、諸軍至太宰府、累戦交綏而退、蛮船五十艘随至、再向其城、因献所獲甲冑弓矢鞍馬、」

 

読み下し文:「己酉(十六日)、王、合浦より至る。元帥・金方慶、中郎将・朴[囚/皿]をして奏せしむ、諸軍太宰府に至りて累戦し、交綏して退く、蛮船五十艘随い至り、再び其城に向かうと。因りて獲る所の甲冑弓矢鞍馬を献ず。」

 

これは志賀島の戦いのことを述べている。金方慶が属した東路軍が、弘安の役で最も華々しい戦闘を行った志賀島の戦いを王に報告したのである。その中で「諸軍太宰府に至りて」と言っている。志賀島のことを太宰府と呼んでいるのである。この太宰府が博多を意味するとしても、志賀島は当時博多の外港の役目をしていたから、あながち間違いとは言えない。

 

間違いかどうかはさておき、この「大宰府」がまさしく「博多」を意味していることを、高麗史の別の文章が説明してくれている。「表」という年表形式の記録に、次の文章がある。

 

「辛己、元至元十八年‖七年五月、金方慶與忻篤茶丘等征日本、至覇家台戦敗、軍不還者十萬有奇」

 

読み下し文:「辛己、元の至元十八年‖(忠烈王の)七年五月(注3)、金方慶は忻篤、(洪)茶丘等と與に日本を征す。覇家台に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者十萬有奇(奇は余と同じ)。」

(註3:五月は東路軍が合浦を出発した日付)

 

「覇家台」は博多の音訳である。「表」は王の年代記である世家を年表風に要約したもので、その中で弘安の役の記事は上記の文章のみだから、この「覇家台」が、前掲の世家の文章の「太宰府」に対応しているのは明らかである。このことからわかるように、高麗人の認識においても、大宰府=博多だったのである。

 

大宰府等下船之地

 

大宰府=博多を知ることによって、史料を見る視野が広がる。その例を示そう。例えば、「元高麗紀事」という本の「耽羅」の部の至元九年十一月十五日条に、次の文章がある。

 

「先奉旨議耽羅日本事、臣等樞密院官詢問、有自南國經由日本來者耽羅人三名、 畫到圖本稱、『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』」

 

済州島の三別抄の乱の平定と、日本への侵攻と、どちらを先にやるべきか検討せよというフビライの指示を受けて、枢密院の役人たちが議論した時に、日本から来た済州島民三人を参考人として呼んで諮問したところ、地図を描いて『 』内の文章のように答えた、というのである。

 

従来の諸説では、答えの中の「太宰府」を大宰府政庁としか解釈しないので、漢文の意味が取れない。そこで例えば下記のような解釈が行われていた。

「日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう」 
この解釈は、元軍が大宰府政庁の占領を目指した証拠の一つとまでされているのだが、証拠以前に漢文解釈として全く成り立っていないのはご覧の通りである。 

いま「大宰府=博多」という高麗人・元人の認識を知った上で原文のの文章を見るならば、まことに素直に:

「太宰府等処の下船の地、倶(とも)に下岸す可く、軍二、三萬を用いることを約す」

と読める。つまり、「日本の大宰府(=博多=息の浜)等の上陸地は、いずれも(遠浅で舟艇が)接岸可能ですから、二、三万の軍を用いることを保証します」 と言っているのである。「太宰府等処」の「等」というのは、博多の息の浜と並べて、百道原、生の松原など複数の上陸適地を指していると考えることができる。「大宰府周辺」などとごまかす必要がない。

 

こうして、文永の役の元軍が大宰府政庁の占領を目的とした、という説の根拠の一つは消えるのである。

 

日本側の「大宰府=博多」

 

上に示した、「大宰府=博多」あるいは「大宰府広域市・博多地区」という風に表される、高麗人や中国人の認識は、彼らの誤解だろうか?そうではあるまい。当時の日本人がそのように認識していたからこそ、日本を訪れ、あるいは居住した外国人がそれを受け入れたのであろう。

 

では鎌倉時代の日本人がそのように認識していた証拠があるかというと、残念ながら私は今のところ見つけていない。しかし江戸時代の出版物にその証拠がある。「鎌倉北条九代記」という、江戸時代前期の通俗歴史書である。

 

元国は文永の役の翌年、厚顔にも使節を送って寄越した。この時の使節は杜世忠を正使として、なぜか正式なルートの博多ではなく、長門に上陸して、正使以下少数名のみが鎌倉へ送られたのだが、一説には長門から直接ではなく、一旦博多へ回送されたと言う。鎌倉北条九代記はこの説に拠ったものか、次のように書いている。

 

「かかる所に蒙古の使杜世忠等また日本に来朝す、高麗人も同じく来れり、太宰府に舟をとどめ、船中にある物どもことごとく注録し、あまたの人等をば太宰府に押留め、杜世忠等ただ三人を鎌倉へぞつかはしける」

(国立国会図書館デジタルコレクションより。句読点はブログ筆者がつけたもの)

 

「舟をとどめ」というのだから、この「太宰府」が内陸の大宰府政庁ではなく、博多を指すことは明らかである。その流れで、「あまたの人等をば」抑留したのもまた博多であろう。博多にはもともと、鴻臚館はじめ、外交使節や貿易商人のための宿泊施設があった。

 

江戸時代前期にこのような「大宰府=博多」の認識があったのであれば、鎌倉時代はなおさらであろう。なぜなら港である那の津(博多)と、大宰府政庁とが一体であった時代の記憶がより濃くなるからである。

 

二十四日大宰府合戦?

 

日本側にも「大宰府=博多」という認識があったことを知れば、日本側の史料の解釈が違ってくる。例えば「関東評定伝」という、鎌倉幕府関係の年表風の記録に、下の記事がある。

「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、著対馬島、討少弐入道代官藤馬允、同廿四日、寄来大宰府與官軍合戦、異賊敗北」

読み下し文「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄せ来たりて対馬島に著(つ)き、少弐入道代官の藤馬允を討つ。同廿四日大宰府に寄せ来りて官軍と合戦し、異賊敗北す。」

 

元軍が二十四日まで居座っていて、しかも内陸の大宰府政庁まで押し寄せたというのだから大変なことだ。しかし、これもまた、「大宰府=博多」という当時の認識を知るならば、「大宰府に寄せ来りて官軍と合戦」というのは、二十日の博多(鳥飼潟)合戦を指すという、なんでもない話になる。この場合は「廿四日」という日付だけが、廿日の誤写だと考えればよいのである。

 

元軍が通説のように十月廿日の一日だけ戦って帰国したのではなく、その後一週間ほど戦闘を続けた後に帰国したという説があり、関東評定伝の上記の文章は、この説を裏付ける根拠の一つとされる。しかし、「大宰府=博多」という当時の認識を踏まえれば、上記の文章は根拠にはなり得ないのである。