はじめまして。れひの妹のきぃです。

親しくさせていだだいていた方々のブログや皆様のコメントから、知った方も多くいるようですが、報告が遅れたこと、お許しください。



台風9号が日本列島を縦断した9月7日の早朝、姉は私が見守る中、その風に乗り「先に行くね」と、旅立ってゆきました。


旅立つ3時間前、寝言なのか、しきりに「あーよかった。それならよかった。」と繰り返しておりました。
痛み止めのモルヒネの点滴をしていたので、ただのうわごとかなとおもっていましたが、今になってみれば、臨床心理士さんとの人生の振り返りも終わり、私には万が一のためにと、ブログの締め方や保険の事・お金の事などを伝えることもでき、安心して旅立ちの準備に取りかかっていたのだと思います。

闘病中は、私達家族が言うどんな言葉よりも、仲間である皆様の一言が、姉にとっては気持ちの安定を図る薬でした。
皆さんに出会えてから、姉は真の笑顔を取り戻し、1日1日を大切に、そしてできる限りにこやかに穏やかに、過ごすことができました。
みなさまそれぞれ悩みを持ちながらも、励まし続けてくださりありがとうございました。

病気になって出来た新しい友達・人生の中で最高の友達が出来たことを、喜び、感謝しておりました。

最期まで、痛み止めをはじめとする薬の使い方や胸水の抜き方・トイレまで歩くのが疲れるからと尿の管を入れて欲しい・バニラアイスにかき氷を掛けると食べやすいけど、それでは身になはらないと高カロリージユースやプロテインゼリー等を出してほしいとスタッフと共に自分で考えて、主治医をはじめとする医療スタッフに指示するようにして、自分で決めた治療・処置を受けていました。
可能性がゼロではないならば、例えそれが低くてもそこに懸けたいと、希望を持ち続けておりました。
抗癌剤が効かなくなってしまったけれど、痛みを緩和してくれる放射線治療を受けることで、痛みと同時に腫瘍も小さくなる事に希望を持ち、がんが消えなくても、痛みを和らげ上手く共存して生きていけばいいんだと、気持ちを切り替えた矢先でした。
お世話になっていた大学病院では受けることのできない、分子標的治療という保険外診療があることを知り、それに望みを託そうと動き出していたのですが、自分の体調では受けることが出来ないことを感じたのか、旅立つ2日前に、緩和ケア病棟へ移りたいとの意志表示をし、週明けの空き次第そちらに移ることが決まったことを伝えた8時間後、旅立つことになりました。


妹の私が言うのも何ですが、最期までかっこよかったです。
勿論、「痛い・辛い・イヤだよ・死んじゃいたいよ」など、弱音も沢山吐き出していました。
けれど、最期の最期まで、生きる希望を捨てずに頑張り通した姉の姿は、私の誇りです。
姉が溺愛していた私の息子ゆうとにも、姉の頑張りや凄さを伝えていこうと思っています。


姉は旅立ちましたが、姉のアップしていなかった文章や、メモなども残っているので、少しづつ私の方で引き継がせてもらおうと考えています。
なので、まだこのブログは閉じません。
姉と同じくかめさんブログですが、たまに覗いてみてください。