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賃貸の営業をしていたので、1月から3月は繁忙期。
契約書類の作成がどうしても間に合わず、新年会の後に会社に戻って仕事したことは後にも先にも昭和64年の短い一週間の一日だけ。
そして、営業自粛となった、平成元年の1月8日にも出勤せざるをえなかった。
どこも閉まって、街ががらんとしていたことを覚えている。
そごうの中でやっとやっていたのが美濃吉で、そこで確かしゃぶしゃぶを食べた。
課長と二人だったのかな、記憶は曖昧。
こんなことを書くのも照れるけど、恋って落ちるものだと思う。
いや、恋は適切ではないか?
細かなことは割愛しますが、まさか好きになるとは思わない人を好きになった。
私はレスキューの彼と別れ、課長は家を出て、私の実家から歩いて10分位のアパートに引っ越してきた。
そこは短い期間で解約することになったのだけど、「もっと一緒にいられると思った」と言われたことも忘れられない。
どれほど好きでも、半同棲とかは親が許さないとかより、私が嫌だった。
やっぱりドライなタイプかもしれない、若い頃から。
その年は宅建を受けることが決まっていて、私はどうしても一回で合格したかったから、勉強優先のスタンスだった。
頭がきれるんだけど、物腰が柔らかくて、優しい。
偉ぶらなく、辛い物が大好きな所が似ていた。
よく物件調査や出張契約や業者回りをしたな。
夏でも絶対に半袖ワイシャツを着ない、お洒落な人だった。
ただ、心配された。
「、本当にそれでいいの?大丈夫なの?」と、夜の底で言われた。
バカだと思ったんだろうね。
悪い思い出も、嫌な記憶もない。
そして、身勝手を承知で書くけど、後で家に戻ったことを知って、良かったと心から思った。
ここは書かない方がいい点かもしれないけど、ありのままに。
不愉快に思う方もいるでしょうが。
一番左が課長で、その隣の紺色が私。
この頃はまだ事務時代。
とにかくがむしゃらに働いていた。
仕事も楽しかった。
私はこんな風に仕事がしたかったんだと思った。
宅建合格を一番喜んでくれたのは課長だった。
そこからは自信がついて、例の三人のことは殆ど気にならなくなったかな。
ならないというのは嘘か。
ただ、基本給や手当等で10万以上給料も上がったので、ステップアップ出来て、本当に良かったなと。
滅茶苦茶悪く言われていたのは分かっていたけど、たから何?って感じだった。
つづきます。
明け方から、くしゃみ連発。
そして、今は頭が重い。
なんの花粉だろう。
きついわ。
今日の散歩道。
大宮のことを書いているからではないけど……
ひじきと炒飯。