第2話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 前編
俺が就職したのは、株式会社日本フランコニー。
ニースに本社を置き、確か当時パリに画廊を構えていたフランス・フランコニー社の100%出資による日本法人。
ベルナール・ビュッフェ始め、当時のフランスの具象画家を代表する面々の版画を制作する版元。バブル絶頂期の美術業界において、当時恐るべき急成長を遂げた会社だ。
社長がよく言っていた。「ウチの会社の仕事は、パリで札束刷ってるのと一緒なんだよ!」
まぁ、こんな感じ、当時をよくご存知の輩は分かると思う。
会社には毎日、笑いが止まらぬほど大金が転がり込んでくる。なので、もちろん道楽に走る。
その会社、バブル絶頂期に南青山の超一等地に最高にスタイリッシュなコンテンポラリー・アート・ギャラリーを出したのである。
話はちょっと変わるが、美術業界と一括りにしても、色んなジャンルがある。日本画、洋画(日本人が描く油絵)、西洋絵画、浮世絵、ヒロ・ヤマガタやラッセンで有名になった現代の版画(印刷)、そしてコンテンポラリー・アートと呼ばれる凡そ一般の人々にはなかなか理解されにくい現代美術・・・いまなら有名な村上隆氏に代表されるジャンル。
で、例えばゴッホやピカソや、日本人なら横山大観などの超有名どころの作品がばっさバッサと高値で飛ぶように売れまくっていた頃、一部の業界人の間では、市場はそのうちに目が肥えてきて、もっと高尚な現代美術を買うようななるはずだ…ということが囁かれ始めた。
例えばその現代美術を、現代音楽に置き換えてみると良く分るのだが、例えば売れ筋のJ-Popが大好きな少年少女たちが、10年後にワケの分らない不協和音著しい現代音楽を喜んで聴くようになるのか?むろんそんなことは有り得ないワケだが、札束に目がくらむと人間の神経は麻痺してしまうのだろう。ごく一部の富裕層しか購入しないような極めて高尚な作品群を、しかも絶頂期の高値で山のように仕入れたのだ。
そして、やがて文字通り、泡は次々と弾け始めた。
自慢するわけではないが、入社当時に、その会社が扱う商品=美術品を色々と見て、そしてその売値を聞いて驚いたものだ。
「なんで、こんなモノがそんな高い値段で売れるワケ?世の中、オカシイ・・・長く続くワケ、ないな、絶対に・・・」
フランコニー社は版元=メーカーだったので、得意先はすべて問屋あるいは小売店。そしてほどなく俺が予想した通り、そんな取引先がどこもかしこも全然買わなくなってきた。
元々、俺はその会社のイケイケドンドン状態で採用された人材だった。他の営業マンの仕事も減ってくる。そして社長から言われた。
「田中クン、東京に来てくれない?そして、どこにどんな売り方してもいいから、他の営業が通ってる得意先以外のところにウチの商品を売って、売上あげてくれないかなぁ?」
いわゆる新規営業である。
俺にしてみれば、願ったりかなったりだった。
熱しやすく醒めやすい性格。
もちろん、まだ美術業界に入った当初である。もちろん思いっきり熱い状態だった。
大阪営業所から東京本社へ赴任となり、大学卒業以来の上京となった。
(続く)
次回予告 第3話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 後編
ニースに本社を置き、確か当時パリに画廊を構えていたフランス・フランコニー社の100%出資による日本法人。
ベルナール・ビュッフェ始め、当時のフランスの具象画家を代表する面々の版画を制作する版元。バブル絶頂期の美術業界において、当時恐るべき急成長を遂げた会社だ。
社長がよく言っていた。「ウチの会社の仕事は、パリで札束刷ってるのと一緒なんだよ!」
まぁ、こんな感じ、当時をよくご存知の輩は分かると思う。
会社には毎日、笑いが止まらぬほど大金が転がり込んでくる。なので、もちろん道楽に走る。
その会社、バブル絶頂期に南青山の超一等地に最高にスタイリッシュなコンテンポラリー・アート・ギャラリーを出したのである。
話はちょっと変わるが、美術業界と一括りにしても、色んなジャンルがある。日本画、洋画(日本人が描く油絵)、西洋絵画、浮世絵、ヒロ・ヤマガタやラッセンで有名になった現代の版画(印刷)、そしてコンテンポラリー・アートと呼ばれる凡そ一般の人々にはなかなか理解されにくい現代美術・・・いまなら有名な村上隆氏に代表されるジャンル。
で、例えばゴッホやピカソや、日本人なら横山大観などの超有名どころの作品がばっさバッサと高値で飛ぶように売れまくっていた頃、一部の業界人の間では、市場はそのうちに目が肥えてきて、もっと高尚な現代美術を買うようななるはずだ…ということが囁かれ始めた。
例えばその現代美術を、現代音楽に置き換えてみると良く分るのだが、例えば売れ筋のJ-Popが大好きな少年少女たちが、10年後にワケの分らない不協和音著しい現代音楽を喜んで聴くようになるのか?むろんそんなことは有り得ないワケだが、札束に目がくらむと人間の神経は麻痺してしまうのだろう。ごく一部の富裕層しか購入しないような極めて高尚な作品群を、しかも絶頂期の高値で山のように仕入れたのだ。
そして、やがて文字通り、泡は次々と弾け始めた。
自慢するわけではないが、入社当時に、その会社が扱う商品=美術品を色々と見て、そしてその売値を聞いて驚いたものだ。
「なんで、こんなモノがそんな高い値段で売れるワケ?世の中、オカシイ・・・長く続くワケ、ないな、絶対に・・・」
フランコニー社は版元=メーカーだったので、得意先はすべて問屋あるいは小売店。そしてほどなく俺が予想した通り、そんな取引先がどこもかしこも全然買わなくなってきた。
元々、俺はその会社のイケイケドンドン状態で採用された人材だった。他の営業マンの仕事も減ってくる。そして社長から言われた。
「田中クン、東京に来てくれない?そして、どこにどんな売り方してもいいから、他の営業が通ってる得意先以外のところにウチの商品を売って、売上あげてくれないかなぁ?」
いわゆる新規営業である。
俺にしてみれば、願ったりかなったりだった。
熱しやすく醒めやすい性格。
もちろん、まだ美術業界に入った当初である。もちろん思いっきり熱い状態だった。
大阪営業所から東京本社へ赴任となり、大学卒業以来の上京となった。
(続く)
次回予告 第3話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 後編
第1話 自分探しの旅から帰国。
画商としての俺の人生。それは、自分探しの旅の終わりから始まった。
大学を卒業し、当時花形職業と呼ばれていたコピーライターとして大阪の印刷会社へ就職。その後、同じ大阪のデザイン企画会社へ転職するが、何か自分なりにしっくり来なかった。
デザイン企画会社・・・文字通り、売っているのは「デザイン」そして「企画」。言わば、アイデア。ハードではなくソフトである。そして販売先は様々な企業から零細業者まで、いわゆるクライアントと呼ばれる先。しかし、そのクライアントというお取引先は何故そのようなデザインや企画を買うのか?
この点がしっくりいかなかったのだ。
自分達の商品をどのように企画し、どんな広告宣伝によって、いかに演出し、どこの販売チャネルに流していくのか・・・そんな事をその会社や担当者に代わって考えるのが仕事である。
結局、俺の思いは・・・「そんなん、ホンマやったら自分らで考えることやん。」
その気持ちが日増しに大きくなり、自分のやっていることに意味を感じなくなってしまったのである。
言わば、自分を見失ってしまった。
で、どうしたかというと、それを探す旅に出たのだ。
何処へ?
アメリカへ!
いきなりなんでやねん?
ま、ちょっと当時の生活に疲れちゃったんですね・・・他にも色々あったし(笑)。
感謝すべきことに、たまたま父親の会社の取引先にカリフォルニアのそこそこの企業があった。そのコネで1年近くその会社でアルバイトをさせていただいた。
この約1年間。これは俺の人生の中で、死ぬまでキラキラと輝き続けることは間違いない。今でも当時の生活を振り返ると、すぐにでもすべてを捨ててそこへ飛んで行きたいくらいである。
住んでいたのはサンフランシスコのグレートハイウェイという海沿いの小さな町。
米人ルームメイトと一軒家をシェア、毎朝リビングの窓を開けると見事な浜辺と美しい大西洋である。現地でヒュンダイという韓国車を安くで買って、平日は毎日そこからフリーウェイを2時間ほど疾走。ベイブリッジを渡りオークランド、バークレイ、リッチモンドを越えてフェアフィールドという新興都市まで通うのだ。
土曜日の夜はルームメイトの友人達と一軒家のリビングや、その時々は浜辺で星を見上げながらの○リファナパーティ!日曜日はヒッピー文化発祥の地であるヘイトアシュベリーのフリーマーケットを見て回ったり、バークレイの洒落たジャズクラブへバリバリのアーチストの生を聴きに行ったり・・・。
もはやこんな生活、本当に人間崩壊してしまうほど楽しかった!
もしも当時まだ20歳前後だったら、マジで崩壊していたかも(笑)
しか~し!
それでど~なる・・・。
幸か不幸か、俺ももう大人だった。
そんなワケである。
話を戻そう。
で、自分は見つかったのか?もちろんNoだ。
大体、えぇカッコしてアメリカに渡って、しかしコレという目的も何もなくブラブラしてるだけでなんで自分が見つかるワケ?人生そんな甘いものではない。
そして、失意というよりも、むしろ「こんなことではご先祖様に申し訳ない」という気持ちで帰国。
当時、確か28歳だったか。えぇ歳こいて住まいは実家。こんな場所でブラブラしていては、またもやご先祖様を泣かせることになってしまうので、とりあえず仕事探し。
ところで今の時代なら、そんな状況で職を探すのは大変だったと思う。しかし当時の日本、ラッキーにもまだバブルの余波が残っていた頃だった。
先述の如く、いわゆるソフトを売ることに疲れた俺は、とにかくモノの姿をしている商品を扱う仕事につきたかった。
輸入雑貨、輸入ファッション、貿易会社・・・就職雑誌で目に入った会社を数社訪問している中に・・・ん?なんかえぇ感じやん、この仕事?何々、アートプロデュース・・・かっちょえぇなぁ。勤務先は?大好きな船場やん。待遇も悪くない。で、要するにこの会社、何を売ってるの?
アート?
絵画?
美術品?
しかも、本社パリ!!!
めっちゃかっちょえぇやん!
で、美術業界!?
な~~んか、胡散臭い感じがまたえぇがな!おもろいがな!
ま、俺など、結局はそんな程度の若僧だったのである。
ちなみに、俺は幼少の頃から絵を描くのが大好きだった。一時期はマジで芸大へ進むことも考えたほどだ。
結局、飛びつくようにその会社へ就職したのである。
半人前の俺の・・・その画商人生のスタートであった。
(続く・・・)
第2話予告編 坂道を転げ落ちながら暴走!?
大学を卒業し、当時花形職業と呼ばれていたコピーライターとして大阪の印刷会社へ就職。その後、同じ大阪のデザイン企画会社へ転職するが、何か自分なりにしっくり来なかった。
デザイン企画会社・・・文字通り、売っているのは「デザイン」そして「企画」。言わば、アイデア。ハードではなくソフトである。そして販売先は様々な企業から零細業者まで、いわゆるクライアントと呼ばれる先。しかし、そのクライアントというお取引先は何故そのようなデザインや企画を買うのか?
この点がしっくりいかなかったのだ。
自分達の商品をどのように企画し、どんな広告宣伝によって、いかに演出し、どこの販売チャネルに流していくのか・・・そんな事をその会社や担当者に代わって考えるのが仕事である。
結局、俺の思いは・・・「そんなん、ホンマやったら自分らで考えることやん。」
その気持ちが日増しに大きくなり、自分のやっていることに意味を感じなくなってしまったのである。
言わば、自分を見失ってしまった。
で、どうしたかというと、それを探す旅に出たのだ。
何処へ?
アメリカへ!
いきなりなんでやねん?
ま、ちょっと当時の生活に疲れちゃったんですね・・・他にも色々あったし(笑)。
感謝すべきことに、たまたま父親の会社の取引先にカリフォルニアのそこそこの企業があった。そのコネで1年近くその会社でアルバイトをさせていただいた。
この約1年間。これは俺の人生の中で、死ぬまでキラキラと輝き続けることは間違いない。今でも当時の生活を振り返ると、すぐにでもすべてを捨ててそこへ飛んで行きたいくらいである。
住んでいたのはサンフランシスコのグレートハイウェイという海沿いの小さな町。
米人ルームメイトと一軒家をシェア、毎朝リビングの窓を開けると見事な浜辺と美しい大西洋である。現地でヒュンダイという韓国車を安くで買って、平日は毎日そこからフリーウェイを2時間ほど疾走。ベイブリッジを渡りオークランド、バークレイ、リッチモンドを越えてフェアフィールドという新興都市まで通うのだ。
土曜日の夜はルームメイトの友人達と一軒家のリビングや、その時々は浜辺で星を見上げながらの○リファナパーティ!日曜日はヒッピー文化発祥の地であるヘイトアシュベリーのフリーマーケットを見て回ったり、バークレイの洒落たジャズクラブへバリバリのアーチストの生を聴きに行ったり・・・。
もはやこんな生活、本当に人間崩壊してしまうほど楽しかった!
もしも当時まだ20歳前後だったら、マジで崩壊していたかも(笑)
しか~し!
それでど~なる・・・。
幸か不幸か、俺ももう大人だった。
そんなワケである。
話を戻そう。
で、自分は見つかったのか?もちろんNoだ。
大体、えぇカッコしてアメリカに渡って、しかしコレという目的も何もなくブラブラしてるだけでなんで自分が見つかるワケ?人生そんな甘いものではない。
そして、失意というよりも、むしろ「こんなことではご先祖様に申し訳ない」という気持ちで帰国。
当時、確か28歳だったか。えぇ歳こいて住まいは実家。こんな場所でブラブラしていては、またもやご先祖様を泣かせることになってしまうので、とりあえず仕事探し。
ところで今の時代なら、そんな状況で職を探すのは大変だったと思う。しかし当時の日本、ラッキーにもまだバブルの余波が残っていた頃だった。
先述の如く、いわゆるソフトを売ることに疲れた俺は、とにかくモノの姿をしている商品を扱う仕事につきたかった。
輸入雑貨、輸入ファッション、貿易会社・・・就職雑誌で目に入った会社を数社訪問している中に・・・ん?なんかえぇ感じやん、この仕事?何々、アートプロデュース・・・かっちょえぇなぁ。勤務先は?大好きな船場やん。待遇も悪くない。で、要するにこの会社、何を売ってるの?
アート?
絵画?
美術品?
しかも、本社パリ!!!
めっちゃかっちょえぇやん!
で、美術業界!?
な~~んか、胡散臭い感じがまたえぇがな!おもろいがな!
ま、俺など、結局はそんな程度の若僧だったのである。
ちなみに、俺は幼少の頃から絵を描くのが大好きだった。一時期はマジで芸大へ進むことも考えたほどだ。
結局、飛びつくようにその会社へ就職したのである。
半人前の俺の・・・その画商人生のスタートであった。
(続く・・・)
第2話予告編 坂道を転げ落ちながら暴走!?