いよいよ倉敷で、2回目の展覧会がスタート!

来週水曜日から、倉敷で作品展がスタート!
もちろん会期中、私も現場へ出張です。
場所は、倉敷駅前にある百貨店・天満屋さんの美術画廊。こじんまりとした会場ですがひじょうに見やすく、そして作品はもちろん充実してますよ!
特に4号というサイズ・・・玄関やちょっとしたスペースに飾りやすい油絵が今回は注目!
そして、版画の最新作「Angel on your shoulder」、これも今まで発表されている中でもかなり小さ目で飾りやすいです。絵の内容も・・・
↓ コレです!

昨年は倉敷では初個展で、さすがに美術館も多い地域だけに皆さんすごく目が肥えていらっしゃる感じでした。1週間の期間のうちに2回以上観に来られる方がとても多かったのも印象に残っています。
また今回も、そんなお客様にお会いできることを楽しみにしています!
(店主ひでを・談)
「ブギウギ店主、あらためてのご挨拶」
さて、ようやく新シリーズのスタートです。
ファンの皆様にはたいへんお待たせしてしまいました。ゴメンナサイ!
いま、日本全体が大きな不安の渦中です。
アドちゃん関係の仕事に携わるスタッフとして、そんな今だからこそ、アドちゃんパワーをしっかりと発信して、小さな子供さんからご年配の方々まで、ちょっとでも元気になっていただければ、私としてもこんなに嬉しいことはありません。
先月は震災の影響で、展覧会予定が一部延期になってしまい、楽しみにお待ちいただいていたファンの皆様にはご迷惑をおかけしてしまいました。
あらためてお詫び申し上げます。
申し訳ございませんでした。
ちなみに、上大岡京急百貨店の展覧会は、今秋に開催の予定で現在調整中です。来月上旬にははっきりとした日程もお知らせできることと思います。いましばらくお待ちくださいませ。
展覧会にあわせて、地元の素敵なクラブでのジャズライブも検討中です!
これからの展覧会予定は、私どものウェブショップBoogieWoogie商店のイベント情報欄をぜひチェックしてくださいませ。
また、最新作も含めた全版画作品の最新カタログも来週仕上がります。そちらもぜひ、送り先をご明記のうえご連絡いただきましたら無料でお送りさせていただきます。
素敵な新作も、出来上がってますよ~!
それから、もしも九州にお住まいのファンの方がいらっしゃれば嬉しい情報。
今夏8月、鹿児島の山形屋というデパートの催場で、アドちゃん来場の大きな展覧会が決まりました!
また、それに合わせて新作情報などもお知らせしていきます。
あ、そうそう。そんなリアルタイムな情報は、ぜひfacebookの水森亜土ファンページのチェックがお薦め。ご本人との打合せの様子とか、コアなネタをちょこちょこっとつぶやいております(笑)
今日から、銀座博品館劇場で、劇団未来劇場の春のレビューも始まりましたね。私は来週火曜日、楽しみに観覧しに上京します。
では、これからぜひ、こちらのシリーズ「Toi et moi~ブギウギ店主の気まぐれ日記」をよろしくお願い申し上げます。
(田中英雄・談)
ファンの皆様にはたいへんお待たせしてしまいました。ゴメンナサイ!
いま、日本全体が大きな不安の渦中です。
アドちゃん関係の仕事に携わるスタッフとして、そんな今だからこそ、アドちゃんパワーをしっかりと発信して、小さな子供さんからご年配の方々まで、ちょっとでも元気になっていただければ、私としてもこんなに嬉しいことはありません。
先月は震災の影響で、展覧会予定が一部延期になってしまい、楽しみにお待ちいただいていたファンの皆様にはご迷惑をおかけしてしまいました。
あらためてお詫び申し上げます。
申し訳ございませんでした。
ちなみに、上大岡京急百貨店の展覧会は、今秋に開催の予定で現在調整中です。来月上旬にははっきりとした日程もお知らせできることと思います。いましばらくお待ちくださいませ。
展覧会にあわせて、地元の素敵なクラブでのジャズライブも検討中です!
これからの展覧会予定は、私どものウェブショップBoogieWoogie商店のイベント情報欄をぜひチェックしてくださいませ。
また、最新作も含めた全版画作品の最新カタログも来週仕上がります。そちらもぜひ、送り先をご明記のうえご連絡いただきましたら無料でお送りさせていただきます。
素敵な新作も、出来上がってますよ~!
それから、もしも九州にお住まいのファンの方がいらっしゃれば嬉しい情報。
今夏8月、鹿児島の山形屋というデパートの催場で、アドちゃん来場の大きな展覧会が決まりました!
また、それに合わせて新作情報などもお知らせしていきます。
あ、そうそう。そんなリアルタイムな情報は、ぜひfacebookの水森亜土ファンページのチェックがお薦め。ご本人との打合せの様子とか、コアなネタをちょこちょこっとつぶやいております(笑)
今日から、銀座博品館劇場で、劇団未来劇場の春のレビューも始まりましたね。私は来週火曜日、楽しみに観覧しに上京します。
では、これからぜひ、こちらのシリーズ「Toi et moi~ブギウギ店主の気まぐれ日記」をよろしくお願い申し上げます。
(田中英雄・談)
第5話 「坂道を転げ落ちながら暴走」 最終回
会社の経営はもはや末期状態。
オレも「何とかしなくては・・・」という思いもあり、とにかく一度の催しで出来る限り大きな売上を狙える企画として、いわゆるハイリスク・ハイリターン型の仕事を考えるようになっていった。
ところで。
皆さんも名前くらいは聞いたことがあると思うが、ヒロ・ヤマガタ、そしてラッセン・・・・恐らくキャッチ・セールス・・・・そんなイメージをお持ちの方も多いかもしれないが。
美術史上ではひじょうに新しいジャンルでもある、これらのアーティスト・・・つねに賛否両論はあるが、バブル期以降いまなお日本の市場で一定の根強いファン層を持っていることも事実。
当時、従来の画商と百貨店が形成する市場とは全く違った流通経路で、これらのジャンルは驚くべき規模を誇っていた。
どのような流通かというと、卸元は自社の販売員たちを組織し、会場はホテルや大きな貸ホールを使用、そして集客を請け負う業者としてテレビ局や新聞社の物販事業部が提携し、それぞれが利益と経費負担を配分するという形態。
中でも、高給で知られる某テレビ局とその傘下にある新聞社を擁するグループが中心となって全国巡回で行われていた企画は、規模が抜きん出ていた。
オレは、百貨店での展示販売会と並行しながら、その某大手マスコミ・グループの企画責任者を何度も訪れて、ウチの会社の作品展示会を提案していた。
しかし、先方もバカではない。
なかなか話には乗って来なかった。
ウチの会社の作品は、どちらかと言えば従来の百貨店顧客などが好むタイプで、一方のマスメディア集客型展示会はもっと客層が若く、これまでの美術業界で見られたような「絵画的」な作品よりも、もっとポップでイラスト的なものが好まれた。
結局、相手はノーリスクで提携出来るのであればやってみてもよい・・・そんな結論になった。
会社に持ち帰って社長に相談した。
「全経費がウチ持ちですわ。しかも、百貨店と違って会場費もかかりますし、それにテレビや新聞を使っての集客なんで、宣伝費もめちゃくちゃ要ります。でも、その分、売れた時に相手に落とすマージンは10%で話つけてますんで、ちなみに1割引きでお客さんに小売するのとほとんど同じです。益率はめちゃくちゃ高いです。利益は残らへんでも、損益分岐ぎりぎりである程度の在庫は損せずに換金出来る勘定になりますけど・・・社長、どないします?」
ちなみに、百貨店催しの平均的な小売予算は当時500万円から1000万円ほどだったが、マスメディア集客展示会だと損益分岐そのものが2000万円くらい、売上予算は5000万円前後というような桁外れな規模。しかもウチの会社が負わなければならない経費が1000万円近くにも達する・・・。
さすがに社長も慎重だったが、結局、とにかく一度やってみようという決定になった。
そして、幸か不幸か、その企画が成功した。場所は仙台の駅前にあるホールだった。
さらに当然の流れとして、2度目を開催。長野だったが、それはコケた・・・。
最初に成功した仙台はテレビを徹底的に使った。一方の長野は新聞に頼った集客だった。しかし、それ以上に違っていたのは品揃え。要するに売れ筋在庫というものがもはや会社から急速に姿を消していたのだ。
しかしそのまま身を引くはあまりにも癪だったし、何とか失敗した分は取り返したかった。
そして立てられた企画が高松、広島、愛媛の3会場巡回で売上予算1億8千万円という内容だった。
今振り返って冷静に考えると、当時は社長もオレも、一種の熱病に冒されていたような状態だったとも思う。言わば、ギャンブルにのめって泥沼にハマるのと同じ心理状態。
嫌な予感は十分にあった。
品揃え、会場の立地条件、さらには販売を任せていた某販売会社の体制・・・。
しかし、もはや精神的に泥沼・・・まるで魔物に憑りつかれたかの如く、オレは黙々と開催準備を進め、社長は相変わらず運転資金の捻出に日々奔走していた。
この時、実はすでに心に決めていたことがあった。
今回のこの3会場の巡回企画が失敗したら退社しよう・・・そのようなカタチでオレは責任をとるべきだと。
理由は単に金銭的な話だけではなかった。
このブログを冒頭からお読みいただいている方はご記憶にあるかもしれないが、会社の社内はオレを中心とする改革派とそれ以外の保守派に分かれていた。
そして以降、会社の経営状況が悪くなるに連れてオレは会社の人事について社長に物申すようになっていた。
要するに、会社の方向性に異を唱える古株の給料、ひいてはその人物たちの存在自体が会社にとってマイナスにしか作用していない・・・そんな話だ。
リストラを決断するのはあくまでも社長である。しかし、オレは陰口をたたかれていた。
「田中がいるから彼は解雇された・・・○○さんも、○○クンも、次は?」等々と。
社内にそんな背景があったのも手伝ったのだろう・・・・・オレは成功する見込みのない、ほとんどリスクしかない仕事にまで突っ走ったのだと思う。
正直に言ってしまおう。
いま思えば、オレは逃げたかったのだ。
催しの失敗・・・それを理由に。
会社も、社長も、オレ個人も・・・もはや限界だった・・・のだろうか・・・。
話を切り出した時、社長は何も言わずに頷いた。
オレは地元の京都へ戻り、画商として独立。細々と一人で商いをスタートさせた。
1993年の春だった。
ほどなく、以前の会社には誰もいなくなった。ちなみに登記上はまだ残っているらしい。
社長にはそれ以来一度もお会いしていない。
辞めたことを後悔してはいない・・・のだが・・・
社長にはとても申し訳ないことをした・・・その気持ちはいまも残っている。
(終)
PS.
5回にわたり連載して参りました「半人前の舞台裏」は、諸事情により今回でしばらくお休みにさせていただくことになりました。忘れた頃の更新にも関わらずご拝読賜りました皆様方には厚く御礼申し上げます。
ちなみに、このアメーバブログは現在弊社が運営しております水森亜土作品サイト内のブログページとして近日中に刷新させていただく予定です。内容は私とアドさんとの様々なネタ話になろうかと思います。
スタートは3月下旬、更新は・・・恐らく月一度くらい?(笑)
ま、よろしければそちらも気が向いた時にのぞいていただけると幸いです。
有難うございました。また今後ともよろしくお願い申し上げます。
ひでを・拝
オレも「何とかしなくては・・・」という思いもあり、とにかく一度の催しで出来る限り大きな売上を狙える企画として、いわゆるハイリスク・ハイリターン型の仕事を考えるようになっていった。
ところで。
皆さんも名前くらいは聞いたことがあると思うが、ヒロ・ヤマガタ、そしてラッセン・・・・恐らくキャッチ・セールス・・・・そんなイメージをお持ちの方も多いかもしれないが。
美術史上ではひじょうに新しいジャンルでもある、これらのアーティスト・・・つねに賛否両論はあるが、バブル期以降いまなお日本の市場で一定の根強いファン層を持っていることも事実。
当時、従来の画商と百貨店が形成する市場とは全く違った流通経路で、これらのジャンルは驚くべき規模を誇っていた。
どのような流通かというと、卸元は自社の販売員たちを組織し、会場はホテルや大きな貸ホールを使用、そして集客を請け負う業者としてテレビ局や新聞社の物販事業部が提携し、それぞれが利益と経費負担を配分するという形態。
中でも、高給で知られる某テレビ局とその傘下にある新聞社を擁するグループが中心となって全国巡回で行われていた企画は、規模が抜きん出ていた。
オレは、百貨店での展示販売会と並行しながら、その某大手マスコミ・グループの企画責任者を何度も訪れて、ウチの会社の作品展示会を提案していた。
しかし、先方もバカではない。
なかなか話には乗って来なかった。
ウチの会社の作品は、どちらかと言えば従来の百貨店顧客などが好むタイプで、一方のマスメディア集客型展示会はもっと客層が若く、これまでの美術業界で見られたような「絵画的」な作品よりも、もっとポップでイラスト的なものが好まれた。
結局、相手はノーリスクで提携出来るのであればやってみてもよい・・・そんな結論になった。
会社に持ち帰って社長に相談した。
「全経費がウチ持ちですわ。しかも、百貨店と違って会場費もかかりますし、それにテレビや新聞を使っての集客なんで、宣伝費もめちゃくちゃ要ります。でも、その分、売れた時に相手に落とすマージンは10%で話つけてますんで、ちなみに1割引きでお客さんに小売するのとほとんど同じです。益率はめちゃくちゃ高いです。利益は残らへんでも、損益分岐ぎりぎりである程度の在庫は損せずに換金出来る勘定になりますけど・・・社長、どないします?」
ちなみに、百貨店催しの平均的な小売予算は当時500万円から1000万円ほどだったが、マスメディア集客展示会だと損益分岐そのものが2000万円くらい、売上予算は5000万円前後というような桁外れな規模。しかもウチの会社が負わなければならない経費が1000万円近くにも達する・・・。
さすがに社長も慎重だったが、結局、とにかく一度やってみようという決定になった。
そして、幸か不幸か、その企画が成功した。場所は仙台の駅前にあるホールだった。
さらに当然の流れとして、2度目を開催。長野だったが、それはコケた・・・。
最初に成功した仙台はテレビを徹底的に使った。一方の長野は新聞に頼った集客だった。しかし、それ以上に違っていたのは品揃え。要するに売れ筋在庫というものがもはや会社から急速に姿を消していたのだ。
しかしそのまま身を引くはあまりにも癪だったし、何とか失敗した分は取り返したかった。
そして立てられた企画が高松、広島、愛媛の3会場巡回で売上予算1億8千万円という内容だった。
今振り返って冷静に考えると、当時は社長もオレも、一種の熱病に冒されていたような状態だったとも思う。言わば、ギャンブルにのめって泥沼にハマるのと同じ心理状態。
嫌な予感は十分にあった。
品揃え、会場の立地条件、さらには販売を任せていた某販売会社の体制・・・。
しかし、もはや精神的に泥沼・・・まるで魔物に憑りつかれたかの如く、オレは黙々と開催準備を進め、社長は相変わらず運転資金の捻出に日々奔走していた。
この時、実はすでに心に決めていたことがあった。
今回のこの3会場の巡回企画が失敗したら退社しよう・・・そのようなカタチでオレは責任をとるべきだと。
理由は単に金銭的な話だけではなかった。
このブログを冒頭からお読みいただいている方はご記憶にあるかもしれないが、会社の社内はオレを中心とする改革派とそれ以外の保守派に分かれていた。
そして以降、会社の経営状況が悪くなるに連れてオレは会社の人事について社長に物申すようになっていた。
要するに、会社の方向性に異を唱える古株の給料、ひいてはその人物たちの存在自体が会社にとってマイナスにしか作用していない・・・そんな話だ。
リストラを決断するのはあくまでも社長である。しかし、オレは陰口をたたかれていた。
「田中がいるから彼は解雇された・・・○○さんも、○○クンも、次は?」等々と。
社内にそんな背景があったのも手伝ったのだろう・・・・・オレは成功する見込みのない、ほとんどリスクしかない仕事にまで突っ走ったのだと思う。
正直に言ってしまおう。
いま思えば、オレは逃げたかったのだ。
催しの失敗・・・それを理由に。
会社も、社長も、オレ個人も・・・もはや限界だった・・・のだろうか・・・。
話を切り出した時、社長は何も言わずに頷いた。
オレは地元の京都へ戻り、画商として独立。細々と一人で商いをスタートさせた。
1993年の春だった。
ほどなく、以前の会社には誰もいなくなった。ちなみに登記上はまだ残っているらしい。
社長にはそれ以来一度もお会いしていない。
辞めたことを後悔してはいない・・・のだが・・・
社長にはとても申し訳ないことをした・・・その気持ちはいまも残っている。
(終)
PS.
5回にわたり連載して参りました「半人前の舞台裏」は、諸事情により今回でしばらくお休みにさせていただくことになりました。忘れた頃の更新にも関わらずご拝読賜りました皆様方には厚く御礼申し上げます。
ちなみに、このアメーバブログは現在弊社が運営しております水森亜土作品サイト内のブログページとして近日中に刷新させていただく予定です。内容は私とアドさんとの様々なネタ話になろうかと思います。
スタートは3月下旬、更新は・・・恐らく月一度くらい?(笑)
ま、よろしければそちらも気が向いた時にのぞいていただけると幸いです。
有難うございました。また今後ともよろしくお願い申し上げます。
ひでを・拝
第4話 「坂道を転げ落ちながら暴走」後編
保守派と改革派に分かれていったフランコニー社。勢力が強かったのは、オレを含む改革派だった。何故かといえば、社長自身がそうだったから。
いま振り返って冷静に考えると、オレは会社を存続させるためには、むしろ保守派が唱える道を進んだほうが正解だったように思う。
オレが指向した、百貨店ルートへ問屋をすっ飛ばして直取引をしながら全国展開となれば、一定数の社員を抱える必要がある。現場のセールスを外注で雇うなら外注費が嵩むし、それ以前に、現場で顧客に対して絵を販売する仕事・・・そんな甘いものではない。
余談だが、オレがよく冗談めかして言う文句がある。
「田中さん、画商さんですか。絵って、値段があってないようなものなんでしょ?」
「その通り。我々の商いっちゅうのは、道端の石ころを・・・・お客様、この石はですねぇ~・・・って優しく撫でながら10万円で売るような仕事ですわ(笑)」
もちろん、このまま言いっ放しでは業界の信用に関わるので、その後ちゃんとフォローはする。が、一流の画商さんというのは、その気になればそんなことでも出来てしまうくらい凄い人たちが多いということ。
逆に表現すれば、美術品をしっかり売りさばくだけの販売力を持てば、もはや宝石も呉服も不動産も、それなりの専門知識さえ身につければ結構楽に売れるとオレは本気で思っている。オレは、自分自身は一流の画商とは思っていないが・・・いや、マジで。
話を戻そう。
つまり、フランコニー社はあくまでも版画のメーカーであったわけで、百貨店の店頭で顧客へ作品を販売するノウハウは無かった。当時たまたま銀座と南青山に小売の画廊を出店していて、その店に配属されていたスタッフ数人はそんなノウハウはある程度身に付けていたが、当時会社が抱えていた負債や不良在庫、社員数や事務所・小売店の数か所にわたる家賃等をペイするだけの利益を継続的に捻出するためには、もっと大人数の精鋭達による販売部隊が必要だった。
オレが先頭となり、全国展開の足掛かりを試みようとはしていた。しかし、自分を含めて、顧客へしっかりと販売出来るようなノウハウを当時持ち合わせていたスタッフはごく少数だったために、なかなか思うような実績は上がらなかった。もちろん、保守派たちの売り上げは上回っていたが。
そしてそのうちに、会社の火の車状態はさらに悪化していった。、
まず、社員たちの給料を捻出するためにキャッシュが要る。それが無ければ借りるしかない。しかし、貸してくれるような先もバブル崩壊劇の最中である。相手を選ぶ。選ばれるためには、そんな相手を上手く騙すしかないわけだ。
社長は凄い人だったと思う。
今でも鮮明に記憶に残っているシーンが二つある。
銀行の融資返済が出来なくて、社長が担当者に返済を遅らせてもらう交渉に行った。そして会社へ帰って来た。経理のおじさんが冷や汗流しながら心配そうに、
「社長、どうでしたか・・・」
そこで社長、大笑いしながら、
「返せないんだから、はっきりと返せませんって言ったんだよ。で、担当の彼、ず~っと黙ってるからさぁ、じゃあウチは倒産ですか?って聞いたんだ。でもまだ黙ってるからさぁ、こんな莫大な不良債権がお宅の銀行に残っちゃったら、○○さんの責任になりませんか?そんなことになれば、○○さん、僕と一緒に心中することになっちゃうかもしれませんよねって言ってやったんだよ。そしたらあと1ケ月待ちましょうってさ(笑)大丈夫、大丈夫!」
もうひとつのシーン。
当時の改革派の部長と昼飯を食いにいって会社に戻ろうとしたら、その部長が突然眉を潜めて、
「お~い、田中クン、いま会社に戻ったらヤバいぜ!」
「えっ?どうしたんですか?」
「ほら、アレアレ、見てみろよ!」
会社のビルの前に明らかに懲りない面々が5~6人タムロしている。さすがにオレもピンと来た。社長が繋ぎ資金を工面するために、何かをしでかしたのだ。
何をしたかと言うと、当時、業者間で即札束に変えれば恐らく2~3千万くらいの巨匠の絵画を在庫で持っている画商からその作品を委託で借りてきて、他へ転売したのである。その先は、業者間だけで営まれる競り市として知られる交換会。
交換会について、ちょっと説明しておこう。その昔から、画商や骨董商などは恐らく胡散臭い連中が多かったためか、なかなか銀行から金を借りるのが難しかったらしい。そんな事情から、同業者同士で言わば助け合いの会のようなものが結成されたのである。
Aさんがお金に困って、ある作品を会に出品した。Bさんが、ちょっとだけ値段に色をつけてそれを買ってあげる。で、Bさんが会の主へお金を支払うのは例えば1ケ月後。そしてAさんには、その会の主がBさんからの入金を待たずに1週間後に渡す・・・ってな具合である。現在はかなり色々なタイプの会があるので、取決めも種々雑多ではあると思うが。
社長に貸した作品を持っていた画商は、即現金なら2~3千万になる在庫をそのまま売らずに持っているわけだ。つまり、そこまでお金には困っていない。そんな画商が社長にその作品を貸し出すのなら、それなりに利潤を乗せるのが当然。恐らく、当時のバブル崩壊時にも関わらずそんな高額品を余裕で抱いていたヤリ手画商なら倍くらいの金額で社長に貸したと思う。どうせ売れた暁には値切られることも見越して。
社長はその作品を、なんと交換会に持ち込んで現金を捻出したのである。つまり即金で2~3千万を握りしめて会社に戻ったのだが、近日中には作品を借りた画商へ4~5千万を払わなければならないのだ。で、それが約束の期限を過ぎても払えなかったのだろう。
もしも、オレがその画商だったら。確かに、怖い面々を雇って出向くかもしれない(笑)
オレと部長が会社へ戻った時、他の社員連中は裏の倉庫で、少しでも高額で仕入れた在庫をせっせと抱えて隠していたらしい。もちろん社長の指示で。そして、角刈り黒服を連れた画商さんが現れて、隠せなかった在庫を束のように持って帰ったとのこと。
ちなみに持ち帰った作品内容を換算すれば、その画商さん、元は取れなかったと思う(笑)
社長はいつもの調子であった。満面の笑みを湛えながら
「二束三文の在庫だったけど、結構換金出来たよなぁ!良かった良かった(笑)」
社長には、本当にお世話になったと思っている。
当時、オレもまだ若かったし、必死だった。そして、会社を背負っているという自負もある程度あったし、それに短期間で美術業界で一定のレベルまで昇って行ったような勘違いも大いにあった。ので、取引先、売り込み先に対して交渉事が通らないと、すぐに口喧嘩をしていたのである。ちょっと偉そうにしたいという下らない欲もあったのだ。そして交渉決裂・・・。
ある日、社長に言われた。
「田中クンはなんで喧嘩するの?どうせ止めるんだったら、わざわざ喧嘩するよりも何も言わずに頭下げて帰って来た方が僕は得だと思うんだけど・・・。」
いま考えれば、ごく当たり前のことである。
しかし、オレはまだそんなことすら気付かずにいた若造だったのだ。目から鱗が落ちた瞬間だった。恥ずかしながら・・・。
そして、いよいよオレが、そんな社長の元を去る時が近づいてくる・・・。
次回予告 第5話「坂道を転げ落ちながら暴走 最終回」
いま振り返って冷静に考えると、オレは会社を存続させるためには、むしろ保守派が唱える道を進んだほうが正解だったように思う。
オレが指向した、百貨店ルートへ問屋をすっ飛ばして直取引をしながら全国展開となれば、一定数の社員を抱える必要がある。現場のセールスを外注で雇うなら外注費が嵩むし、それ以前に、現場で顧客に対して絵を販売する仕事・・・そんな甘いものではない。
余談だが、オレがよく冗談めかして言う文句がある。
「田中さん、画商さんですか。絵って、値段があってないようなものなんでしょ?」
「その通り。我々の商いっちゅうのは、道端の石ころを・・・・お客様、この石はですねぇ~・・・って優しく撫でながら10万円で売るような仕事ですわ(笑)」
もちろん、このまま言いっ放しでは業界の信用に関わるので、その後ちゃんとフォローはする。が、一流の画商さんというのは、その気になればそんなことでも出来てしまうくらい凄い人たちが多いということ。
逆に表現すれば、美術品をしっかり売りさばくだけの販売力を持てば、もはや宝石も呉服も不動産も、それなりの専門知識さえ身につければ結構楽に売れるとオレは本気で思っている。オレは、自分自身は一流の画商とは思っていないが・・・いや、マジで。
話を戻そう。
つまり、フランコニー社はあくまでも版画のメーカーであったわけで、百貨店の店頭で顧客へ作品を販売するノウハウは無かった。当時たまたま銀座と南青山に小売の画廊を出店していて、その店に配属されていたスタッフ数人はそんなノウハウはある程度身に付けていたが、当時会社が抱えていた負債や不良在庫、社員数や事務所・小売店の数か所にわたる家賃等をペイするだけの利益を継続的に捻出するためには、もっと大人数の精鋭達による販売部隊が必要だった。
オレが先頭となり、全国展開の足掛かりを試みようとはしていた。しかし、自分を含めて、顧客へしっかりと販売出来るようなノウハウを当時持ち合わせていたスタッフはごく少数だったために、なかなか思うような実績は上がらなかった。もちろん、保守派たちの売り上げは上回っていたが。
そしてそのうちに、会社の火の車状態はさらに悪化していった。、
まず、社員たちの給料を捻出するためにキャッシュが要る。それが無ければ借りるしかない。しかし、貸してくれるような先もバブル崩壊劇の最中である。相手を選ぶ。選ばれるためには、そんな相手を上手く騙すしかないわけだ。
社長は凄い人だったと思う。
今でも鮮明に記憶に残っているシーンが二つある。
銀行の融資返済が出来なくて、社長が担当者に返済を遅らせてもらう交渉に行った。そして会社へ帰って来た。経理のおじさんが冷や汗流しながら心配そうに、
「社長、どうでしたか・・・」
そこで社長、大笑いしながら、
「返せないんだから、はっきりと返せませんって言ったんだよ。で、担当の彼、ず~っと黙ってるからさぁ、じゃあウチは倒産ですか?って聞いたんだ。でもまだ黙ってるからさぁ、こんな莫大な不良債権がお宅の銀行に残っちゃったら、○○さんの責任になりませんか?そんなことになれば、○○さん、僕と一緒に心中することになっちゃうかもしれませんよねって言ってやったんだよ。そしたらあと1ケ月待ちましょうってさ(笑)大丈夫、大丈夫!」
もうひとつのシーン。
当時の改革派の部長と昼飯を食いにいって会社に戻ろうとしたら、その部長が突然眉を潜めて、
「お~い、田中クン、いま会社に戻ったらヤバいぜ!」
「えっ?どうしたんですか?」
「ほら、アレアレ、見てみろよ!」
会社のビルの前に明らかに懲りない面々が5~6人タムロしている。さすがにオレもピンと来た。社長が繋ぎ資金を工面するために、何かをしでかしたのだ。
何をしたかと言うと、当時、業者間で即札束に変えれば恐らく2~3千万くらいの巨匠の絵画を在庫で持っている画商からその作品を委託で借りてきて、他へ転売したのである。その先は、業者間だけで営まれる競り市として知られる交換会。
交換会について、ちょっと説明しておこう。その昔から、画商や骨董商などは恐らく胡散臭い連中が多かったためか、なかなか銀行から金を借りるのが難しかったらしい。そんな事情から、同業者同士で言わば助け合いの会のようなものが結成されたのである。
Aさんがお金に困って、ある作品を会に出品した。Bさんが、ちょっとだけ値段に色をつけてそれを買ってあげる。で、Bさんが会の主へお金を支払うのは例えば1ケ月後。そしてAさんには、その会の主がBさんからの入金を待たずに1週間後に渡す・・・ってな具合である。現在はかなり色々なタイプの会があるので、取決めも種々雑多ではあると思うが。
社長に貸した作品を持っていた画商は、即現金なら2~3千万になる在庫をそのまま売らずに持っているわけだ。つまり、そこまでお金には困っていない。そんな画商が社長にその作品を貸し出すのなら、それなりに利潤を乗せるのが当然。恐らく、当時のバブル崩壊時にも関わらずそんな高額品を余裕で抱いていたヤリ手画商なら倍くらいの金額で社長に貸したと思う。どうせ売れた暁には値切られることも見越して。
社長はその作品を、なんと交換会に持ち込んで現金を捻出したのである。つまり即金で2~3千万を握りしめて会社に戻ったのだが、近日中には作品を借りた画商へ4~5千万を払わなければならないのだ。で、それが約束の期限を過ぎても払えなかったのだろう。
もしも、オレがその画商だったら。確かに、怖い面々を雇って出向くかもしれない(笑)
オレと部長が会社へ戻った時、他の社員連中は裏の倉庫で、少しでも高額で仕入れた在庫をせっせと抱えて隠していたらしい。もちろん社長の指示で。そして、角刈り黒服を連れた画商さんが現れて、隠せなかった在庫を束のように持って帰ったとのこと。
ちなみに持ち帰った作品内容を換算すれば、その画商さん、元は取れなかったと思う(笑)
社長はいつもの調子であった。満面の笑みを湛えながら
「二束三文の在庫だったけど、結構換金出来たよなぁ!良かった良かった(笑)」
社長には、本当にお世話になったと思っている。
当時、オレもまだ若かったし、必死だった。そして、会社を背負っているという自負もある程度あったし、それに短期間で美術業界で一定のレベルまで昇って行ったような勘違いも大いにあった。ので、取引先、売り込み先に対して交渉事が通らないと、すぐに口喧嘩をしていたのである。ちょっと偉そうにしたいという下らない欲もあったのだ。そして交渉決裂・・・。
ある日、社長に言われた。
「田中クンはなんで喧嘩するの?どうせ止めるんだったら、わざわざ喧嘩するよりも何も言わずに頭下げて帰って来た方が僕は得だと思うんだけど・・・。」
いま考えれば、ごく当たり前のことである。
しかし、オレはまだそんなことすら気付かずにいた若造だったのだ。目から鱗が落ちた瞬間だった。恥ずかしながら・・・。
そして、いよいよオレが、そんな社長の元を去る時が近づいてくる・・・。
次回予告 第5話「坂道を転げ落ちながら暴走 最終回」
第3話 「坂道を転げ落ちながら暴走」 中編
大阪の営業所から東京本社へ赴任。オレに与えられた任務は、新規開拓。
ここでちょっと美術業界、美術市場についての簡単なお話しをしておこう。
まず、貴方の周りに、時々絵を買うというような方がいらっしゃるだろうか?絵と言えば、もちろん安くても普通なら10万円くらいはする。20万、30万円どころか、100万円を越えるような作品も、それなりに名前の通った画家ならざらである。
そして、そんな絵を何度か買ったことがある方を貴方は具体的にどれほどご存知か?殆ど見当たらない・・・というのが大半ではないかと思う。
美術市場とは言わばその様なもので、一人当たりの購入単価が高いので金額的には一定の規模はあれど、お客さんの絶対数は恐らく他の高額品・・・宝飾品やクルマ、時計、高級家具等等と比べればたかが知れている。故に、画商の数も少ないし、他の業界と比べると驚くほど狭いのだ。
そんな世界である。流通経路も極めて限られている。
そして、絵を買う人たちの大半がどこで求めるかというと、百貨店。もちろんそれ以外にも絵を売っている店は、町の画廊や額屋さん、あるいはオークション、その他見本市会場のような所で開かれる展示販売会など・・・しかし、百貨店が圧倒的に多いはず。
そんな百貨店には、いわゆる問屋さんというのがメーカーや卸元との間に入って商いをしていらっしゃる。
なので、輸入卸元であったフランコニー社の得意先はそのような問屋さんたち。しかし狭い業界なのでその数も知れていた。
そんな業界での、新規開拓を任されたオレ。
最初は、例えば近所の飲み屋や事務所などへ、作品を直接販売する小売の代理店を全国に組織するとか、呉服や宝石その他の高額品を販売している異業種の大手に作品を売ってもらう等など・・・。通販の会社にも色々と売り込みに行った。
しかし、色々と見回してみると、やはり一番大きな販売チャネルは百貨店である。しかし、バブルも弾け始め、得意先の問屋さんがフランコニー社の作品を仕入れる金額は激減し始めていた。
ちなみに、そんな問屋さんに対してはすでに担当の営業マンがそれぞれいるわけである。しかし、その営業連中の成績が落ち込んで全然伸びない。で、得意先の問屋はウチの作品ばかり仕入れているわけではないのである。
各営業マンたちも、色々と工夫しながら売上を伸ばす努力はしていたのだろう。しかし、オレが思ったのは、そんな問屋さんが買ってくれないのなら、一番大きなチャネルである百貨店に、ウチが直接売り込んでいくしかないのではないか?
百貨店の催し会場などで、ウチの会社がウチの作品を一堂に並べる大即売会を全国巡回で開催していけば、一番効率的に売上が上がるのではないか・・・という結論だった。
社長はかなりアナーキーな方だった。
「社長。問屋さん達が百貨店で色々と売り出ししている会場を視察してますが、ウチの作品ってそんなに並んでないですわ。でも、催し全体の売上は今でも云千万くらい上がってるんですよ。でも、問屋への売上は減ってる一方ですよね?もちろん今までの義理はあるかもしれませんけど、これ、商売ですし、金の切れ目が縁の切れ目って言いますやん。僕は、もう問屋さんが買うてくれへん以上、そこをすっ飛ばして百貨店に直接売り込んでいくのが一番効率的でえぇと思うんですけど、どう思わはります?」
「そうだよな。田中クンの言う通りだよな。ウチだって死活問題なんだから、問屋が買わないんなら、そうするしかないよな。」
お墨付きをいただいたオレは、一気に全国の百貨店に売り込みを始めた。もちろん社内の営業担当達の間からは大クレームの嵐である。
「社長、あの関西から来た田中って奴が、私の担当の○○画廊をすっ飛ばしてその先のデパートに直接売り込みに行ってるんですよ。○○画廊の社長さんからこっぴどく叱られました。このままだったら、○○画廊さん、取り引き停止になってしまうかもしれません。止めさせてもらえませんか?」
しかし、先述のように社長はアナーキー。
「でも、もう最近○○画廊は全然買ってくれてないじゃん。キミの営業努力が足りないんだから仕方ないよね?そんなことを言うんだったら、もっと○○画廊に買ってもらいなよ・・・」ってな調子である。
結局は、オレの考え方、やり方というのは、それまでの得意先の数々から一堂にそっぽ向かれる方法だった。しかし、その方法によって新しい活路を見出していこうという決断だったのである。
オレの営業成績は伸びていた。しかし残念ながら、会社全体の落ち込みをすぐに支えられる程までには至らなかった。オレのプラス業績よりも、他の担当者たちの売上激減の方が大きかったのである。
まさに当時、巷の至る所で見られた典型的なバブル崩壊劇であった。
そしてほどなく社内は、オレを中心とする言わば改革派と、従来の問屋を重視しながら生き延びる方法を模索すべきだと考える保守派に分かれ、真っ向から対立することとなっていったのである。
(続く)
次回予告「第4話 坂道を転げ落ちながら暴走 後編」
ここでちょっと美術業界、美術市場についての簡単なお話しをしておこう。
まず、貴方の周りに、時々絵を買うというような方がいらっしゃるだろうか?絵と言えば、もちろん安くても普通なら10万円くらいはする。20万、30万円どころか、100万円を越えるような作品も、それなりに名前の通った画家ならざらである。
そして、そんな絵を何度か買ったことがある方を貴方は具体的にどれほどご存知か?殆ど見当たらない・・・というのが大半ではないかと思う。
美術市場とは言わばその様なもので、一人当たりの購入単価が高いので金額的には一定の規模はあれど、お客さんの絶対数は恐らく他の高額品・・・宝飾品やクルマ、時計、高級家具等等と比べればたかが知れている。故に、画商の数も少ないし、他の業界と比べると驚くほど狭いのだ。
そんな世界である。流通経路も極めて限られている。
そして、絵を買う人たちの大半がどこで求めるかというと、百貨店。もちろんそれ以外にも絵を売っている店は、町の画廊や額屋さん、あるいはオークション、その他見本市会場のような所で開かれる展示販売会など・・・しかし、百貨店が圧倒的に多いはず。
そんな百貨店には、いわゆる問屋さんというのがメーカーや卸元との間に入って商いをしていらっしゃる。
なので、輸入卸元であったフランコニー社の得意先はそのような問屋さんたち。しかし狭い業界なのでその数も知れていた。
そんな業界での、新規開拓を任されたオレ。
最初は、例えば近所の飲み屋や事務所などへ、作品を直接販売する小売の代理店を全国に組織するとか、呉服や宝石その他の高額品を販売している異業種の大手に作品を売ってもらう等など・・・。通販の会社にも色々と売り込みに行った。
しかし、色々と見回してみると、やはり一番大きな販売チャネルは百貨店である。しかし、バブルも弾け始め、得意先の問屋さんがフランコニー社の作品を仕入れる金額は激減し始めていた。
ちなみに、そんな問屋さんに対してはすでに担当の営業マンがそれぞれいるわけである。しかし、その営業連中の成績が落ち込んで全然伸びない。で、得意先の問屋はウチの作品ばかり仕入れているわけではないのである。
各営業マンたちも、色々と工夫しながら売上を伸ばす努力はしていたのだろう。しかし、オレが思ったのは、そんな問屋さんが買ってくれないのなら、一番大きなチャネルである百貨店に、ウチが直接売り込んでいくしかないのではないか?
百貨店の催し会場などで、ウチの会社がウチの作品を一堂に並べる大即売会を全国巡回で開催していけば、一番効率的に売上が上がるのではないか・・・という結論だった。
社長はかなりアナーキーな方だった。
「社長。問屋さん達が百貨店で色々と売り出ししている会場を視察してますが、ウチの作品ってそんなに並んでないですわ。でも、催し全体の売上は今でも云千万くらい上がってるんですよ。でも、問屋への売上は減ってる一方ですよね?もちろん今までの義理はあるかもしれませんけど、これ、商売ですし、金の切れ目が縁の切れ目って言いますやん。僕は、もう問屋さんが買うてくれへん以上、そこをすっ飛ばして百貨店に直接売り込んでいくのが一番効率的でえぇと思うんですけど、どう思わはります?」
「そうだよな。田中クンの言う通りだよな。ウチだって死活問題なんだから、問屋が買わないんなら、そうするしかないよな。」
お墨付きをいただいたオレは、一気に全国の百貨店に売り込みを始めた。もちろん社内の営業担当達の間からは大クレームの嵐である。
「社長、あの関西から来た田中って奴が、私の担当の○○画廊をすっ飛ばしてその先のデパートに直接売り込みに行ってるんですよ。○○画廊の社長さんからこっぴどく叱られました。このままだったら、○○画廊さん、取り引き停止になってしまうかもしれません。止めさせてもらえませんか?」
しかし、先述のように社長はアナーキー。
「でも、もう最近○○画廊は全然買ってくれてないじゃん。キミの営業努力が足りないんだから仕方ないよね?そんなことを言うんだったら、もっと○○画廊に買ってもらいなよ・・・」ってな調子である。
結局は、オレの考え方、やり方というのは、それまでの得意先の数々から一堂にそっぽ向かれる方法だった。しかし、その方法によって新しい活路を見出していこうという決断だったのである。
オレの営業成績は伸びていた。しかし残念ながら、会社全体の落ち込みをすぐに支えられる程までには至らなかった。オレのプラス業績よりも、他の担当者たちの売上激減の方が大きかったのである。
まさに当時、巷の至る所で見られた典型的なバブル崩壊劇であった。
そしてほどなく社内は、オレを中心とする言わば改革派と、従来の問屋を重視しながら生き延びる方法を模索すべきだと考える保守派に分かれ、真っ向から対立することとなっていったのである。
(続く)
次回予告「第4話 坂道を転げ落ちながら暴走 後編」
第2話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 前編
俺が就職したのは、株式会社日本フランコニー。
ニースに本社を置き、確か当時パリに画廊を構えていたフランス・フランコニー社の100%出資による日本法人。
ベルナール・ビュッフェ始め、当時のフランスの具象画家を代表する面々の版画を制作する版元。バブル絶頂期の美術業界において、当時恐るべき急成長を遂げた会社だ。
社長がよく言っていた。「ウチの会社の仕事は、パリで札束刷ってるのと一緒なんだよ!」
まぁ、こんな感じ、当時をよくご存知の輩は分かると思う。
会社には毎日、笑いが止まらぬほど大金が転がり込んでくる。なので、もちろん道楽に走る。
その会社、バブル絶頂期に南青山の超一等地に最高にスタイリッシュなコンテンポラリー・アート・ギャラリーを出したのである。
話はちょっと変わるが、美術業界と一括りにしても、色んなジャンルがある。日本画、洋画(日本人が描く油絵)、西洋絵画、浮世絵、ヒロ・ヤマガタやラッセンで有名になった現代の版画(印刷)、そしてコンテンポラリー・アートと呼ばれる凡そ一般の人々にはなかなか理解されにくい現代美術・・・いまなら有名な村上隆氏に代表されるジャンル。
で、例えばゴッホやピカソや、日本人なら横山大観などの超有名どころの作品がばっさバッサと高値で飛ぶように売れまくっていた頃、一部の業界人の間では、市場はそのうちに目が肥えてきて、もっと高尚な現代美術を買うようななるはずだ…ということが囁かれ始めた。
例えばその現代美術を、現代音楽に置き換えてみると良く分るのだが、例えば売れ筋のJ-Popが大好きな少年少女たちが、10年後にワケの分らない不協和音著しい現代音楽を喜んで聴くようになるのか?むろんそんなことは有り得ないワケだが、札束に目がくらむと人間の神経は麻痺してしまうのだろう。ごく一部の富裕層しか購入しないような極めて高尚な作品群を、しかも絶頂期の高値で山のように仕入れたのだ。
そして、やがて文字通り、泡は次々と弾け始めた。
自慢するわけではないが、入社当時に、その会社が扱う商品=美術品を色々と見て、そしてその売値を聞いて驚いたものだ。
「なんで、こんなモノがそんな高い値段で売れるワケ?世の中、オカシイ・・・長く続くワケ、ないな、絶対に・・・」
フランコニー社は版元=メーカーだったので、得意先はすべて問屋あるいは小売店。そしてほどなく俺が予想した通り、そんな取引先がどこもかしこも全然買わなくなってきた。
元々、俺はその会社のイケイケドンドン状態で採用された人材だった。他の営業マンの仕事も減ってくる。そして社長から言われた。
「田中クン、東京に来てくれない?そして、どこにどんな売り方してもいいから、他の営業が通ってる得意先以外のところにウチの商品を売って、売上あげてくれないかなぁ?」
いわゆる新規営業である。
俺にしてみれば、願ったりかなったりだった。
熱しやすく醒めやすい性格。
もちろん、まだ美術業界に入った当初である。もちろん思いっきり熱い状態だった。
大阪営業所から東京本社へ赴任となり、大学卒業以来の上京となった。
(続く)
次回予告 第3話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 後編
ニースに本社を置き、確か当時パリに画廊を構えていたフランス・フランコニー社の100%出資による日本法人。
ベルナール・ビュッフェ始め、当時のフランスの具象画家を代表する面々の版画を制作する版元。バブル絶頂期の美術業界において、当時恐るべき急成長を遂げた会社だ。
社長がよく言っていた。「ウチの会社の仕事は、パリで札束刷ってるのと一緒なんだよ!」
まぁ、こんな感じ、当時をよくご存知の輩は分かると思う。
会社には毎日、笑いが止まらぬほど大金が転がり込んでくる。なので、もちろん道楽に走る。
その会社、バブル絶頂期に南青山の超一等地に最高にスタイリッシュなコンテンポラリー・アート・ギャラリーを出したのである。
話はちょっと変わるが、美術業界と一括りにしても、色んなジャンルがある。日本画、洋画(日本人が描く油絵)、西洋絵画、浮世絵、ヒロ・ヤマガタやラッセンで有名になった現代の版画(印刷)、そしてコンテンポラリー・アートと呼ばれる凡そ一般の人々にはなかなか理解されにくい現代美術・・・いまなら有名な村上隆氏に代表されるジャンル。
で、例えばゴッホやピカソや、日本人なら横山大観などの超有名どころの作品がばっさバッサと高値で飛ぶように売れまくっていた頃、一部の業界人の間では、市場はそのうちに目が肥えてきて、もっと高尚な現代美術を買うようななるはずだ…ということが囁かれ始めた。
例えばその現代美術を、現代音楽に置き換えてみると良く分るのだが、例えば売れ筋のJ-Popが大好きな少年少女たちが、10年後にワケの分らない不協和音著しい現代音楽を喜んで聴くようになるのか?むろんそんなことは有り得ないワケだが、札束に目がくらむと人間の神経は麻痺してしまうのだろう。ごく一部の富裕層しか購入しないような極めて高尚な作品群を、しかも絶頂期の高値で山のように仕入れたのだ。
そして、やがて文字通り、泡は次々と弾け始めた。
自慢するわけではないが、入社当時に、その会社が扱う商品=美術品を色々と見て、そしてその売値を聞いて驚いたものだ。
「なんで、こんなモノがそんな高い値段で売れるワケ?世の中、オカシイ・・・長く続くワケ、ないな、絶対に・・・」
フランコニー社は版元=メーカーだったので、得意先はすべて問屋あるいは小売店。そしてほどなく俺が予想した通り、そんな取引先がどこもかしこも全然買わなくなってきた。
元々、俺はその会社のイケイケドンドン状態で採用された人材だった。他の営業マンの仕事も減ってくる。そして社長から言われた。
「田中クン、東京に来てくれない?そして、どこにどんな売り方してもいいから、他の営業が通ってる得意先以外のところにウチの商品を売って、売上あげてくれないかなぁ?」
いわゆる新規営業である。
俺にしてみれば、願ったりかなったりだった。
熱しやすく醒めやすい性格。
もちろん、まだ美術業界に入った当初である。もちろん思いっきり熱い状態だった。
大阪営業所から東京本社へ赴任となり、大学卒業以来の上京となった。
(続く)
次回予告 第3話 坂道を転げ落ちながら暴走!? 後編
第1話 自分探しの旅から帰国。
画商としての俺の人生。それは、自分探しの旅の終わりから始まった。
大学を卒業し、当時花形職業と呼ばれていたコピーライターとして大阪の印刷会社へ就職。その後、同じ大阪のデザイン企画会社へ転職するが、何か自分なりにしっくり来なかった。
デザイン企画会社・・・文字通り、売っているのは「デザイン」そして「企画」。言わば、アイデア。ハードではなくソフトである。そして販売先は様々な企業から零細業者まで、いわゆるクライアントと呼ばれる先。しかし、そのクライアントというお取引先は何故そのようなデザインや企画を買うのか?
この点がしっくりいかなかったのだ。
自分達の商品をどのように企画し、どんな広告宣伝によって、いかに演出し、どこの販売チャネルに流していくのか・・・そんな事をその会社や担当者に代わって考えるのが仕事である。
結局、俺の思いは・・・「そんなん、ホンマやったら自分らで考えることやん。」
その気持ちが日増しに大きくなり、自分のやっていることに意味を感じなくなってしまったのである。
言わば、自分を見失ってしまった。
で、どうしたかというと、それを探す旅に出たのだ。
何処へ?
アメリカへ!
いきなりなんでやねん?
ま、ちょっと当時の生活に疲れちゃったんですね・・・他にも色々あったし(笑)。
感謝すべきことに、たまたま父親の会社の取引先にカリフォルニアのそこそこの企業があった。そのコネで1年近くその会社でアルバイトをさせていただいた。
この約1年間。これは俺の人生の中で、死ぬまでキラキラと輝き続けることは間違いない。今でも当時の生活を振り返ると、すぐにでもすべてを捨ててそこへ飛んで行きたいくらいである。
住んでいたのはサンフランシスコのグレートハイウェイという海沿いの小さな町。
米人ルームメイトと一軒家をシェア、毎朝リビングの窓を開けると見事な浜辺と美しい大西洋である。現地でヒュンダイという韓国車を安くで買って、平日は毎日そこからフリーウェイを2時間ほど疾走。ベイブリッジを渡りオークランド、バークレイ、リッチモンドを越えてフェアフィールドという新興都市まで通うのだ。
土曜日の夜はルームメイトの友人達と一軒家のリビングや、その時々は浜辺で星を見上げながらの○リファナパーティ!日曜日はヒッピー文化発祥の地であるヘイトアシュベリーのフリーマーケットを見て回ったり、バークレイの洒落たジャズクラブへバリバリのアーチストの生を聴きに行ったり・・・。
もはやこんな生活、本当に人間崩壊してしまうほど楽しかった!
もしも当時まだ20歳前後だったら、マジで崩壊していたかも(笑)
しか~し!
それでど~なる・・・。
幸か不幸か、俺ももう大人だった。
そんなワケである。
話を戻そう。
で、自分は見つかったのか?もちろんNoだ。
大体、えぇカッコしてアメリカに渡って、しかしコレという目的も何もなくブラブラしてるだけでなんで自分が見つかるワケ?人生そんな甘いものではない。
そして、失意というよりも、むしろ「こんなことではご先祖様に申し訳ない」という気持ちで帰国。
当時、確か28歳だったか。えぇ歳こいて住まいは実家。こんな場所でブラブラしていては、またもやご先祖様を泣かせることになってしまうので、とりあえず仕事探し。
ところで今の時代なら、そんな状況で職を探すのは大変だったと思う。しかし当時の日本、ラッキーにもまだバブルの余波が残っていた頃だった。
先述の如く、いわゆるソフトを売ることに疲れた俺は、とにかくモノの姿をしている商品を扱う仕事につきたかった。
輸入雑貨、輸入ファッション、貿易会社・・・就職雑誌で目に入った会社を数社訪問している中に・・・ん?なんかえぇ感じやん、この仕事?何々、アートプロデュース・・・かっちょえぇなぁ。勤務先は?大好きな船場やん。待遇も悪くない。で、要するにこの会社、何を売ってるの?
アート?
絵画?
美術品?
しかも、本社パリ!!!
めっちゃかっちょえぇやん!
で、美術業界!?
な~~んか、胡散臭い感じがまたえぇがな!おもろいがな!
ま、俺など、結局はそんな程度の若僧だったのである。
ちなみに、俺は幼少の頃から絵を描くのが大好きだった。一時期はマジで芸大へ進むことも考えたほどだ。
結局、飛びつくようにその会社へ就職したのである。
半人前の俺の・・・その画商人生のスタートであった。
(続く・・・)
第2話予告編 坂道を転げ落ちながら暴走!?
大学を卒業し、当時花形職業と呼ばれていたコピーライターとして大阪の印刷会社へ就職。その後、同じ大阪のデザイン企画会社へ転職するが、何か自分なりにしっくり来なかった。
デザイン企画会社・・・文字通り、売っているのは「デザイン」そして「企画」。言わば、アイデア。ハードではなくソフトである。そして販売先は様々な企業から零細業者まで、いわゆるクライアントと呼ばれる先。しかし、そのクライアントというお取引先は何故そのようなデザインや企画を買うのか?
この点がしっくりいかなかったのだ。
自分達の商品をどのように企画し、どんな広告宣伝によって、いかに演出し、どこの販売チャネルに流していくのか・・・そんな事をその会社や担当者に代わって考えるのが仕事である。
結局、俺の思いは・・・「そんなん、ホンマやったら自分らで考えることやん。」
その気持ちが日増しに大きくなり、自分のやっていることに意味を感じなくなってしまったのである。
言わば、自分を見失ってしまった。
で、どうしたかというと、それを探す旅に出たのだ。
何処へ?
アメリカへ!
いきなりなんでやねん?
ま、ちょっと当時の生活に疲れちゃったんですね・・・他にも色々あったし(笑)。
感謝すべきことに、たまたま父親の会社の取引先にカリフォルニアのそこそこの企業があった。そのコネで1年近くその会社でアルバイトをさせていただいた。
この約1年間。これは俺の人生の中で、死ぬまでキラキラと輝き続けることは間違いない。今でも当時の生活を振り返ると、すぐにでもすべてを捨ててそこへ飛んで行きたいくらいである。
住んでいたのはサンフランシスコのグレートハイウェイという海沿いの小さな町。
米人ルームメイトと一軒家をシェア、毎朝リビングの窓を開けると見事な浜辺と美しい大西洋である。現地でヒュンダイという韓国車を安くで買って、平日は毎日そこからフリーウェイを2時間ほど疾走。ベイブリッジを渡りオークランド、バークレイ、リッチモンドを越えてフェアフィールドという新興都市まで通うのだ。
土曜日の夜はルームメイトの友人達と一軒家のリビングや、その時々は浜辺で星を見上げながらの○リファナパーティ!日曜日はヒッピー文化発祥の地であるヘイトアシュベリーのフリーマーケットを見て回ったり、バークレイの洒落たジャズクラブへバリバリのアーチストの生を聴きに行ったり・・・。
もはやこんな生活、本当に人間崩壊してしまうほど楽しかった!
もしも当時まだ20歳前後だったら、マジで崩壊していたかも(笑)
しか~し!
それでど~なる・・・。
幸か不幸か、俺ももう大人だった。
そんなワケである。
話を戻そう。
で、自分は見つかったのか?もちろんNoだ。
大体、えぇカッコしてアメリカに渡って、しかしコレという目的も何もなくブラブラしてるだけでなんで自分が見つかるワケ?人生そんな甘いものではない。
そして、失意というよりも、むしろ「こんなことではご先祖様に申し訳ない」という気持ちで帰国。
当時、確か28歳だったか。えぇ歳こいて住まいは実家。こんな場所でブラブラしていては、またもやご先祖様を泣かせることになってしまうので、とりあえず仕事探し。
ところで今の時代なら、そんな状況で職を探すのは大変だったと思う。しかし当時の日本、ラッキーにもまだバブルの余波が残っていた頃だった。
先述の如く、いわゆるソフトを売ることに疲れた俺は、とにかくモノの姿をしている商品を扱う仕事につきたかった。
輸入雑貨、輸入ファッション、貿易会社・・・就職雑誌で目に入った会社を数社訪問している中に・・・ん?なんかえぇ感じやん、この仕事?何々、アートプロデュース・・・かっちょえぇなぁ。勤務先は?大好きな船場やん。待遇も悪くない。で、要するにこの会社、何を売ってるの?
アート?
絵画?
美術品?
しかも、本社パリ!!!
めっちゃかっちょえぇやん!
で、美術業界!?
な~~んか、胡散臭い感じがまたえぇがな!おもろいがな!
ま、俺など、結局はそんな程度の若僧だったのである。
ちなみに、俺は幼少の頃から絵を描くのが大好きだった。一時期はマジで芸大へ進むことも考えたほどだ。
結局、飛びつくようにその会社へ就職したのである。
半人前の俺の・・・その画商人生のスタートであった。
(続く・・・)
第2話予告編 坂道を転げ落ちながら暴走!?