何をするべきか、何をするべきではないかを教えてくれる人はたくさんいる 。行動を促したり、逆に禁止したりするための情報はたくさんある。けれども、「何もしない」ということを教えてくれる人や本はほとんど見ない。徹底的に何もしないことは、何かをすることに慣れすぎている人にとっては、ほとんど不可能に近く、思いつきもしないことなのだろう。
徹底的に何もしないというのは、何かをすることが当たり前の人にとっては、恐ろしいことに違いない。何かをしていなければ、自分は何者でもなくなってしまうと思うのかもしれない。何もしなければ、自我は消滅してしまう。事実、自我は死を目の当たりにする。そこで心は、自分を見失う不安と恐怖にぶつかる。
ところが、自我を失う恐怖としばらく対峙すると、何もしないということが心の中にとてつもない現象を引き起こすのを体験する。自我の消失がリアリティの顕現であることを体験する。そしてなぜか、自我が薄まるほど「存在しているという感じ」は増幅される。たぶん、自我が完全に消え去ることはないが、その存在は限りなく薄められる。その薄まった自我の向こうに透けて見える世界というのは、言葉に汚された心では到底理解不能なシロモノだ。
自我はその世界の体験を言葉にして、恍惚だの歓喜だのと表現してみたりする。けれどもその時点ですでに自我が優勢になっているので、リアリティは消失している。そして、心は再び自我の殻に収まり、存在感を失い、味気ない日常へと戻っていく。
徹底的に何もしないというのは、何かをすることが当たり前の人にとっては、恐ろしいことに違いない。何かをしていなければ、自分は何者でもなくなってしまうと思うのかもしれない。何もしなければ、自我は消滅してしまう。事実、自我は死を目の当たりにする。そこで心は、自分を見失う不安と恐怖にぶつかる。
ところが、自我を失う恐怖としばらく対峙すると、何もしないということが心の中にとてつもない現象を引き起こすのを体験する。自我の消失がリアリティの顕現であることを体験する。そしてなぜか、自我が薄まるほど「存在しているという感じ」は増幅される。たぶん、自我が完全に消え去ることはないが、その存在は限りなく薄められる。その薄まった自我の向こうに透けて見える世界というのは、言葉に汚された心では到底理解不能なシロモノだ。
自我はその世界の体験を言葉にして、恍惚だの歓喜だのと表現してみたりする。けれどもその時点ですでに自我が優勢になっているので、リアリティは消失している。そして、心は再び自我の殻に収まり、存在感を失い、味気ない日常へと戻っていく。