謝罪。行為としては格付けにおいて卑下される立ち位置に追いやられている窮鼠であるが個体差によって猫は愚かキリスト教観における全能神にも喰らい付き。神喰らいの異名を持ってもおかしくはない。ちょっと待て。乗る電車間違えたかもしれん。おっけ。多分合ってる。というのも謝罪は個々の質によってとんでもないサボタージュを可能としてしまうのだ。事細かに綴ると事案を特定されてしまう可能性があるのでここら辺で辞めておくが、筆者は人生の中で幾度と無い謝罪の機会を全て拾い集め自らで刀を研ぎ続け、とんでもなく鋭利な刀を作成してしまったのかもしれないと自負している。自らの融通が通せるなら頭なんか軽いものだ。そこに少々の罪悪感を持ち合わせられれば人間性も無欠である。(都会で吾郎のテーマを聴くと出稼ぎに来た気持ちになる。)