だいぶ前に「オートレース」について書くと予告?していたので、ちょっと書いてみたいと思う。
時事ネタ:「座間事件」と「新しい地図」
https://ameblo.jp/revenge2020/entry-12326093381.html
実は、サラリーマン時代、というか、サラリーマンなりたての平成初期の数年間、昨年消滅した某オートレース場に勤務していたのである。
その会社は、オートレース場の施設オーナーで(土地は某不動産子会社のショッピングセンター運営会社持ちで上物がその会社持ち)、主催者である行政に施設を賃貸しており、売上の数パーセントを賃貸料としてもらっていたのである。
そして、そのオートレース場施設を管理する部署に配属されていたのである。
配属された当時は、バブルの末期であり、その終焉手前の特にバブルの炎が燃え盛っていた時期だった。
オートレースの数字で見ても、当時そこで開催されたSGの売上金額は、未だにオートレース史上最高記録として残っているくらいである。
それも、準決勝が1個レース不成立になったにも関わらずである。
当時は、「施設改善レース」という、収益を施設の改善に充てるという、全レース選手のランクの採点除外で、賞金も安く、メンバーもあまり良くない、あまり売れない開催があった。
で、その冬の開催時に一度ひどい雨が降り、超寒くて全然お客さんが来ず、その年の売上最低記録だなどと言われた事があったのだが、それでも1日2億は本場だけで売れた(現在では1日1億以上本場で売れる開催は、ごく稀である)。
とにかくそのレース場は、一人あたりの購買単価が平均で7万円というとんでもない状態で(本来の開場時間より早い、選手の朝練習から見る来場者は、無料で入場可能&単価の分母となる入場者数としてカウントされていなかったという事情もあったが)、入場者数も3,000人を切るような事は無かったので、最低でも2億は売れていたという訳である。
しかし、そんな状態もバブルの崩壊に伴い、自分がいた数年でもどんどん売上が落ちて行き、別の部署に異動になる頃には、全盛時の6~7割くらいになったのではなかろうか。
とまあ、ある意味、かなり激動の時期にいた事にもなるので、結構色々とオモシロい体験をさせて頂く事が出来、今でもイイ思い出として残っているのである。
そんな思い出をちょこちょこと書いてみたい。
当時のオートレースのエンジンは二気筒の「フジ」全盛期で、新人と一握りの変わりモノ選手がメグロなどの単気筒に乗っていた以外は、皆一様に「フジ」だった。
しかし、かなりパワーがあり、スピードも出るフジは、年配の選手からは、「危険で選手寿命が縮まる」という事で評判が芳しくなく、更に選手の整備の力量によってもかなり性能に差が出る事もあり、もっとパワーを落とし、整備出来る範囲も狭めたエンジンに統一をという選手会の意見に対応すべく、入札により現在の「セア(SEAR)」に代わると言う出来事があったのだが、偶然にもその時期に立ち会う事が出来た。
基本的に当時の選手会は、バリバリのA級選手(現在ならS級)がやるよりは、分別のあるベテラン選手がやっており、ファン目線よりも中間~下位層の選手目線といった感が否めない。
その後もマフラー変更やらタイヤ変更やらが行われているが、基本的には、全て「スピードを落とす」方向でやられているという点が特徴的であろう。
ちなみにその場の、当時の選手会役員は、会長が全国の選手会長も兼務していたI川選手。
それに副会長が雨が巧く派閥も大きいM田選手であった。
エンジン交代当時の出来事で今でも鮮明に記憶に残っているのが、エンジンがセアに決定し、正式導入の前に各レース場に試乗させに来たのだが、A1を張った事もある暴れん坊のI葉選手が試乗を終えた後、ヘルメットを取るなり「パワーもレスポンスも何もかも悪い。こんなのでレースなんか出来ない」と吐き捨てていたシーン。
その後、I葉選手は、確かセアに乗るか乗らないかのうちに、若くして選手から引退していったのであった。
ちなみにI葉選手は、趣味で爬虫類を飼っており、たしか爬虫類ショップも経営していたと記憶している(引退後も確かそっち方面に行った?)。
そういえば、I葉選手のオモシロいエピソードとして、選手会の旅行に同行させて頂いた際の宴会での出来事がある。
宴会も結構盛り上がって頂点に達しようかと言う時、座敷に座っているコンパニオンの後ろに浴衣姿で近づいて行ったI葉選手。
真後ろに付けると、おもむろに浴衣の前をはだけ、コンパニオンの頭頂部に自身のイチモツを載せて
「ちょんまげ!」
とやったのである(笑)
それ以来、ウチの事務所では、I葉選手の事を「ちょんまげ」と呼んでいた(笑)
または「アナコンダ」(昔車名にしていたらしい)と呼んでいた(笑)
I葉選手がA1となった時、規定出走数をクリアし、ほぼA1が確定した段階で考課が下がらないようにずっと欠場していて若干問題にもなっていた(野球で言えば首位打者が確定したら欠場するようなモノ)。
しかし、本人としては、A1というのが一つの目標だったため、それが達成された事で、一応の区切りとなったと競走会の人から聞いた事があった。
おっと、そういえば当時のオートレース場の関係団体の説明をしていなかった。
なので、簡単に説明したい。
基本的には、以下のような構成である。
【上部団体】
・運輸省
→当時のオートレース(小型自動車競走)の監督官庁。レース場にはあまり来ず、年に数回視察にやってくる。
・日本小型自動車振興会(日動振)
→現在のJKAの前身。オートレースの総元締め。こちらもレース場にはあまり来ない。
【運営団体】
・主催者(C県とF橋市)=「胴元」
→奇数月が市、偶数月が県の主催で、それぞれ公営競技課、公営競技事務所が業務にあたっている。
・選手会
→文字通り選手の団体。
・小型自動車競走会
→審判やら発走員やら医務やら検車やら、実際にレース(競走)の公正なる運営に係る業務を行う。
・従事員組合
→主催者に雇われた投票所(穴場)の車券販売業務を行う従事員の組合。「穴場のBBA」などとも呼ばれていた(笑)
・売店業者の団体(正式名称忘れた…)
→レース場の食堂や売店を運営する業者の団体。施設会社より店舗を借り受けて販売し、それらの家賃は、売上歩率(よく売れる店)や固定額(あまり売れない店)で施設会社に入っていた。
・施設会社
→某遊園地で有名な企業(笑)他に南関競馬場2場も所有。
【その他】
・土地所有会社
→某巨大ショッピングセンター運営会社。実質レース運営には関わらず
とまあ、概ねこんな感じ。
とりあえず長くなりそうなので、今日のところはこの辺で。
つづく。