もう何年くらい前だろうか。フジTVの番組「ホンマでっかTV」を視ていた時のことだ。

その日、同番組にはT.M.Revolutionこと西川貴教がゲスト出演していた。


(画像はWikipediaより)



番組内での西川貴教の「相談事」は、「誇り」がテーマ。

「自分が『大阪や京都の出身』だと、滋賀県出身だということを隠して偽ってしまう人もいる。もっと滋賀県民であることに誇りを持って欲しいけど、そう思ってもらうにはどうしたら良いのか」

確かそんな話だったと思う。そして更に

「滋賀県には都として大津宮がかつてあったり、他にも安土城とか誇れるもの沢山あるんですよね」と続ける。



出演している「専門家の先生方」は色々と答えるが、私は「先生方の回答」がどれも得心に至らなかった。

「誇りとは何か」…その話の核心とも言うべきそれに、触れていないと感じたからだろう。

要するに、話の中に「アイデンティティ」ってやつが抜けているのだ。




(画像はOriconNewsより)



もし私がその場にいたら、西川貴教氏にまずこう言う。

「大津宮とか安土城とか、それは『お国自慢』であって『誇り』とは別物ですよ」



そして更にこう続ける。

「もし貴方(西川氏)がレコード大賞を受賞したとします。 そしてステージに上がり、マイクを向けられて『今のお気持ちを』と聞かれたら何と答えますか。」

「もしそのステージ上で、『滋賀県には古くには都として大津宮があって、日本一の琵琶湖が…』などと言ったら、見ている人達は『何故今ここで観光アピール??(⁠‘⁠◉⁠⌓⁠◉⁠’⁠)』と、不思議がるでしょう。」

「ではこう言ったらどうでしょうか。 『1人の歌手としてだけでなく、滋賀県の男として…滋賀県民だってこれだけの事が出来るんだと証明したい、そんな気持ちが常にありまして…』と。 それを聞いて不思議がる人はそんなにいないと思います。」

「お分かりでしょうか。 お国自慢はあくまでお国自慢であって、自らの心の内から起こる誇りとは違うのです。」

「滋賀県民として誇りを持つ為に必要なのは、『滋賀県民であること』、ただそれだけでよいのです。」



(画像はじゃらんnetより)





自分の国・或いは出身の都道府県にあるものを、「誇る」ことは往々にして有ることだと思う。

その対象となるのは歴史名称であったり、街や人口等の規模、技術や文化、それに育まれた名産品や地域を代表する農作物や産業、郷土の偉人等々、多岐にわたることだろう。

それらを誇りに思ったり、「国や郷土の誇り」と称する事自体は変な事ではない。

しかしながら

もし「お国自慢」=「誇り」であるならば、お国自慢の少ない国や地域はどうするのか。

発展途上国は? 最貧国は? 難民などどうすればよいのか。 自慢出来るものが無ければ、誇りは持てないという馬鹿げた話になってしまう。そんな事、あろう筈がない。




では「誇り」とは何か。 もし聞かれたら私はこう答える。

「『誇り』とは、『自分がかく在りたいと思う心』、そして『それを実行する意志』のことです」


そこに『お国自慢』は必要ない。 日本人として誇りを持ちたいのなら日本人で在ればよく、韓国人として誇りを持ちたいと願うなら韓国人で在りさえすればそれでいいのだ。他の国、地域も同様である。

お国自慢などを持ってきて、自分とういう存在に肉付けしようとしても、結局「自らの誇り」にはなり得ない。

自らの誇りは、自ら打ち立てるものであり、自分の外から持って来るものではないからだ。




とはいえ、「心」と「意思」のみで「誇り」としてしまっては、ネトウヨやクソサヨク、果てには犯罪者まで「誇りのある人」になってしまう為

上述の言葉に「道徳」や「規律」、「モラル」などといった言葉は含ませておかねばならないだろうけども。

本日は以上です。




という訳で、今回より「アイデンティティの自立編」としてブログ記事を更新致します。宜しくどうぞ。