「男らしさ、女らしさとは」…こういう話をすると、言葉狩りをしてくる奴等がいる。
LGBT推進論者共である。
ゲイやレズが大好きで、LGBTを「素晴らしい価値観」と宣う「奴等」は
コチラが男らしさや女らしさについて語ったり、男女間の恋愛や性に対して「普通」という言葉で表現する事を、「差別」と称して攻撃する。
「そんな表現は彼等を傷つけるんです!(。•́︿•̀。)」
「『普通』なんて言わないで下さい! 彼等が普通じゃないみたいじゃないですか!`(>▂<)´」
…などといった具合に、勝手に被害者(もしくは被害者の支持者)になってコチラの口を塞ごうとしてくる。
その癖、自分達は好き勝手にモノを言い、「自分達の自由が保証され、自分達が意のままに振る舞える社会」こそが「開かれた社会」であり、「多様性を認める社会」だと、信じて疑わずに主張するのだ。
相手の自由を認めずに、相手の価値観を否定しながら。
奴等の思うがままの「社会」になったら
私達はLGBTを「素晴らしい人達」と崇め奉る様に「称賛」しなければならない。
レズやゲイのカップルを「苦難を乗り越え真実の愛を手にした人達」と受け止め、目を細めて微笑ましく見なければならない。
奴等の価値観を「先進的」と崇め奉り、LGBTの果てしない自由を応援し、自分達の価値観を抑え込み「後進的」と否定しなければならない。
そしてLGBTに嫌悪感を抱くことは微塵も許されないのだ。
何故なら奴等の「賛成・肯定」はそういう内容だからだ。
奴等は自分達の主張する「多様性」を認めろと迫り、相手の価値観を否定し「考えを改めろ」と要求する。そして自分達の価値観のゴリ押しを「素晴らしい行動」と信じて疑わない。
心の底から「クソ食らえ」である。
だから私はLGBT推進論者が死ぬほど嫌いだ。ついでにポリコレだとか環境活動家、ヴィーガン活動家も同様の理由で嫌悪する。
だがLGBTの人達自体が嫌いか、と言えばそうではない。
レズは眼の前にいても平気だし、「性同一性障害」の人に対しては理解する。ただし、ゲイだけは生理的に受け付けられない。
正直なところ、もし友人に「自分はゲイ」だと打ち明けられたなら、その友人関係を続ける自信は私には無い。だからといって「ゲイがこの世にいることが許せない」などとは思わない。
存在している事自体は構わないのだ。ただ私自身が「性的対象」に見られたら耐えられないというだけだ。
だがLGBT推進論者は、この様な物言いも許さないのだ。心からウンザリする。
「パートナーシップ制度」も、納税に対しての行政サービスの不平等を是正する、という観点で「賛成」である。
だが賛成だからといって、「同性婚」が素晴らしいなどと思っている訳でもなんでもない。
だがLGBT推進論者は、パートナーシップ制度への「賛成」が「同性婚への賛成」と同義でないと気が済まない。
奴等はどこまでも「自分達の価値観を称賛」される事を望み、主張し、迫るのだ。
私は奴等にこう言いたい。
相手の文化や価値観を蔑ろにしながら、一体何の「多様性」か。
推進論者及び活動家は一方的であり、やり過ぎであり、求め過ぎであり、自分勝手過ぎるのだ。そしてその全てに対して無頓着であり、無自覚なのだ。
だから私は奴等の存在が許せない。
本日は以上です。