前回の続きです。







(エブリスタより)

 ところで、朝鮮学校を卒業した在日二世の中で、我が子である三世を朝鮮学校に通わせた者も少なくないが、彼等が皆「将軍様マンセー」で凝り固まった集団とは私には到底思えない。

 もし朝鮮籍の在日が、最初から「将軍様マンセー」で凝り固まっているのならば、ただその為に我が子を朝鮮学校に通わせるのならば、「元在日同胞とはいえ戦争停戦中の敵国同士」と、「韓国籍」は排除せねばなるまい。

 だが今現在はともかく、30年前の当時では韓国籍の者が排除されるどころか普通に朝鮮学校に通っていた。

 また、在日関連の催し物でお互いが出会ってみたところで、いがみ合いが始まる訳でもなければ、排斥しようとするでもない。

 特に私の場合、「朝鮮籍の従兄弟」が子供らの引率等、世話人として催し物に参加している事が多く、当時の従兄弟は朝鮮銀行の社員であった。(従兄弟は私よりひと回り年上である。)

 催し物での子供らの引率は、在日韓国民団の青年部の人や朝鮮銀行・朝鮮学校等に勤める若い職員が担っていたようだが、別にグループに分かれるでもなく普通に接し、共同で行っていた。私もそうだが、そこに違和感を感じる者など特にいなかっただろう。

 子供らは単に無邪気なだけだったかもしれないが、大人達は「在日それぞれの選択の結果」と受け止めていたのではないだろうか。

 あの頃の情景を思い浮かべるに、私にはそうとしか思えないのだ。



(画像は民団新聞より)





だからといって、今現在において「朝鮮学校」を肯定出来るか…と言われれば

 「存在そのものを否定する気にはならないが、その有り様には賛成出来ない」、といったところか。


 まず「無償化」には賛成出来ないし、する気もしない。

 現況の朝鮮学校は学校教育法の区分において「各種学校」であり、学校教育法第1条に規定される学校、つまり「一条校」ではない。謂わば専門学校や学習塾と同じ位置付けだ。

 無償化をどうしても求めたいのであれば、まず規定されたカリキュラムを満たし、公の性質を持つ学校として一条校の認可を受けるべきであるし、それ故に教員も日本のそれに従い、教員免許を取得した者を置かねばならない。

 これは自分達の望む自由なカリキュラムに拘るか、補助或いは無償化を望むなら教育法の規定に従うか、その選択なのであって、条件を満たさないまま日本国に「学費を負担せよ」というのは、見当違い甚だしい我儘な要求と言わざるを得ない。まして「差別」という言葉はこれには当てはまらない。

 もし一条校としての規定を十二分に満たしているにも関わらず、「朝鮮学校だから」という理由だけで認可を跳ね除けられるならば、その時初めて「差別」と言えるのだ。朝鮮学校はそれではない。

 ちなみに昔、我が実家にも「朝鮮学校無償化の署名」の用紙が届いた事がある。父は受け取りはしたが返事はせず、署名する事もなかった。父の胸の内はどうあれ、私は父の対処は正しかったと思う。


(画像は東京新聞より)



 また、自前の運動場が無い(もしくは狭い)からといって、余所の公園等を許可無く勝手に使用するなどという行為はいただけない。

 ルールを守る、常識的な行動を自ら心掛ける、というのは「学校」の名を掲げるならば当然の事であるし、権利を求めるのならば尚の事だろう。



 とはいえ、朝鮮学校という「最も弱く安全な相手」に対して、校門蹴りながら怒鳴り散らす「恥ずかしい程に勇ましいネトウヨ」には、何の共感もしないが。