大学に何とか合格し、初めての一人暮らしをスタートして半年程経った頃。季節は秋に差し掛かっていた。

そんなある日、私の下宿に封筒が届く。差出人は高校時のクラスメイト(男性)であり、彼は仲良くしていた「友人」だった。

確かに下宿の住所と電話番号は彼に伝えていたものの、「それにしても何故電話でなく封筒で?」と疑問に思いつつ、中身を開けた。

中身は聖教新聞の切り抜き数枚と、えらく筆圧の強そうな手紙が1枚。





その時の私はまだ「創価学会」と「聖教新聞」の存在を知らず、「何これ?(⁠☉⁠。⁠☉⁠)⁠」…と、思いつつ内容を確かめた。

新聞の切り抜きは「強制連行」や「従軍慰安婦」についての記事であり、手紙は切り抜きの内容に対し「日本人はこういう事を知らなきゃいけない! 考えなきゃいけないんだ!」、という感じのことが書いてある。

新聞の切り抜きは「資料」のつもりか。だから電話でなく封筒か。

「彼」の行動に対し、理解出来たのは「何故電話でなく封筒なのか」という事だけ。

そして中身を確認し終えた私の中に湧いた感情は

少々の驚きと困惑、そして苛立ちだった。



「彼」は在日でも帰化人でもなく日本人。

「彼」が「私と同じ在日」ならば、逆に「私」が「彼と同じ日本人」ならば、まだどういう意図かは分かる。だが「日本人である彼」が、「在日韓国人である私」にその様なモノを送りつけてきたのだ。

何より、私は高校時代に自分が在日韓国人であることを彼に教えていた。彼はそれを知っているにもかかわらず、この行動。まして「高校時代の分別のある彼」という人物像からは正直、想像し難いものだった。

「コイツ、俺に何を言いたいんだ?(⁠˘⁠・⁠_⁠・⁠˘⁠)」という疑問、「これは友人とはいえ、失礼じゃないのか?(⁠-⁠_⁠-⁠メ⁠)」という苛立ちの感情で、私は何とも言えない気分になった。

私は彼に電話した。



私「よお、◯◯。送られきた封筒の中身見たんやけどさ、これどういうつもりなん?(⁠˘⁠・⁠_⁠・⁠˘⁠)」

彼は「そうか、読んでくれたのか!」と謂わんばかりにテンションを揚げ、まくし立ててくる。私は「ちょっと待てや」と止め、質問した。


私「前に俺が在日韓国人って教えとったよな? 忘れたんか?⁠(⁠ò⁠_⁠ó⁠ˇ⁠)⁠」

彼「いや覚えとるよ、勿論。ʘ⁠‿⁠ʘ⁠」

私「じゃあ何で知ってて韓国人の俺にこういう事してんの?⁠(⁠ò⁠_⁠ó⁠ˇ⁠)⁠」

彼「は? だって日本人は皆知っとかないけんやん! 考えないけん事やろ!(⁠╯⁠°⁠□⁠°⁠)⁠」


…と、彼は更にテンションを揚げ、同じ事を主張する。私は苛立ちを抑えられなくなり始め、やや怒りの口調でもう一度聞き返した。

「だから『何で韓国人の俺にそんな事言うてくるんか』って、聞きよるんよ俺は。⁠(⁠ò⁠_⁠ó⁠ˇ⁠)」


この時点で「聖教新聞を購読してくれ」とか、「創価学会の活動を知ってくれ」とか言ってくるのであれば、まだ「意図」という意味で理解出来たろう。
私としては、出来れば「言う相手が違う」と察して欲しかったが、私の期待する反応は返って来なかった。

そして私は「理解」した。

「あぁコイツ、自分のしてる事が自分で理解できないんだ。自分の言いたいことしか頭にないんだ。」と。



彼はなおも主張を続ける。私はもう、辟易し始めていた。

遂に彼は「国」を語り始める。日本はこのままじゃいけない、勉強しなきゃいけない、変わらなきゃいけない…と「演説」が続く。高校時代はそんな事全く言ってこなかったのに。

一方的で会話が成立しない状況。諦めと怒りの気持ちの中、私はこう切り出した。

私「いや、もういい。意味が分からないならしょうがない。もうその話はいいから、最後に1つだけ質問させてくれ。」

彼はようやく「演説」を止め、「うん、何?(⁠ ⁠・⁠ω⁠・⁠)⁠」と返す。そこで私は

「お前さん、日本の国旗・日の丸、『踏め』って言われたら踏めるか?」と聞いた。


これは非常に失礼極まりない質問だ。だが、国を語る人間に「国を憂う気持ち」があるのかどうか、それを推し量る意味では意義のあるものだ。私はそう直感し、彼に敢えて問うた。そして彼は


「うん、踏めるけど何で?(⁠ ⁠╹⁠▽⁠╹⁠ ⁠)」

と、何のためらいもなく答えた。そんなの普通だろ、と謂わんばかりの声で。


この瞬間に、私の怒りが爆発した。




私「アンタねぇぇぇ! 国がどーならなきゃいけねえ、とか散々言っといてそれか!? 国旗踏めるとか、誰が簡単に言いよるんね!!(⁠┛⁠◉⁠Д⁠◉⁠)⁠┛⁠」

私「日本人が『日の丸踏めます』とか言ったらいかんやろ!! そんな人間が国があーだこーだ、とか誰に言いよるんね!!!(⁠┛⁠◉⁠Д⁠◉⁠)⁠┛⁠」


私はそのまま小一時間「説教」して電話を切った。

電話越しとはいえ、これが私の創価学会員を目の辺りにする「初体験」となった。悪い印象しか残らない初体験だった。



しかし何とも皮肉なものだ。

「日の丸踏めるとか言うな」と、「日本人の彼」に「韓国人の私」が説教しているのだから。

国を語りながら、そこに「愛国心」は無い。だから国旗に対する想いも無い。国という枠で考える頭を持たない。

市民運動家、クソサヨク、創価学会、etc…彼等の語る「国」とは何を指しているのだろうか。彼等自身、きっと考えていないのだろう。
(「愛国カルト」にハマってるだけのネトウヨにも、愛国心など感じないが。)

「彼」にもそれは無かった。




「彼」が「国旗踏めるとか言っちゃいけんね…(⁠。⁠•́⁠︿⁠•̀⁠。⁠)」と言ってくるのは、この日から3年後のことである。