極端な反日教育、行き過ぎた反日教育、とかよく言われるけど、極端な反日教育って何や?

本日はその辺りを少し考察してみた。



■「反日」という言葉が使われる場面

主に、日本が過去に犯した蛮行を伝えようとする時、この「反日」という言葉をよく耳にする。

はたまた、近隣諸国を主とする諸外国が日本の過去の(戦時の)行いに対して言及する時、

それはまた、「反日」的である、とされる。

「反日」という言葉をそのまま読み取ると、「日本に反するもの」という意味になる。

日本に反する思想、日本に反する発言、日本に反する行動。

それらを教育すれば、それは「反日教育」という事になってしまう。



■「反日」が基準にしている日本はどんな日本?

そもそも、一体どういう日本を基準としての「反日」なのか?

何に反しているというのか?その基準がなければ、「反日」の定義も決まらないはずである。

「反日」だ、と批判する前に、日本とはどういう国なのか、を論ずる必要がある。



■日本とはどういう国なのか?


日本とはどういう国かを考えようとするならば、必ずその歴史を紐解く必要が出てくる。

そこでいつまでも引っ掛かるのが戦前、戦後、の解釈なのである。

《戦前》
・明治維新から日清、日露戦争、第一次・第二次世界大戦、その流れをどう読むか
・その時代の背景を読む。経済の流れ、国の中心的勢力、思想・信条、国民の世相、宗教的背景、メディア(情報の流れ)
・結果どうなっていったか、またその原因はどこにあったのか。

《戦後》
・他国の介入、その影響、国民生活の移り変わり、変化
・中心的勢力、思想・信条、経済の流れ、メディア(情報の流れ)、他国情勢
・戦後処理の流れ、共産圏の拡大

これらを整理して始めて、過去の日本、現在の日本、これからの日本が見えてくる。

そして、基準にすべき日本がはっきりと決まる。





■「反日教育」という言葉の歪んだ使われ方

上記の日本の定義、見方が異なるところから、様々な歪みが生まれる。

ここで注目されるのは、「反日」という言葉を使う者は、そのほとんどは過去の(戦時の)日本の行いを、「仕方のないものであった」「回避不能な正当防衛であった」と捉えている点である。

また、非常にネガティブなイメージとして、被害妄想的に使われる場合が多いので要注意である。


【重要!!】

要するに、歴史を見つめ、日本とはどういう国であったのか、現在はどういう国であるか、未来はどういう国であろうとするのか、を見つめることが重要であり、そうせずして「反日」という言葉に惑わされてはならない。

本人にとって都合の悪い事実に関して、「反日」と言って、あたかも不当な評価を下されている事に不服を唱え、異議を申し立てているかの如くに使われている「反日」という言葉に気を付けて頂きたい。

その事を理解していないと、極端な反日、とか、行き過ぎた反日、という曖昧な言葉に、何だか被害者意識になって物事を誤解する恐れがある。

恐ろしい事に、「反日外交」などと近隣諸国を批判する時、その心には、他国に対する敬意の念など微塵も存在しない。


日本らしさ、日本の素晴らしさ、日本の誇り、どれも言葉は美しいが、

何となくひとりひとりが持っているイメージ的なものを御誘導されないように気を付けよう。



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