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ReubenFan

伊勢神宮/Ise Jingu

 

「外宮は何か変だ。」と思っているのですが、こんな時期で参拝客は少ないかなと外宮に足を運んでみました。

 

歩いてみると、「やっぱり多賀宮が本来ここに祭られていた宮なのかな」、と感じましたので思いを書いてみます。

明治政府は、国家神道化で天照大御神を頂点にしたので、宮の文字を変えてしまいました。高宮=多賀宮と月読宮=月夜見宮でさすがに読みは変えていませんが。以下は、本来の字を使ってみます。

 

神路通が気になっているのですが、地図を見てもこの道は、もともと月読宮、高河原神社から高宮につながっていたように見えます。現在は外宮本殿の場所を避けて通っていますが、外宮が創建されるまでは、高宮までまっすぐ通っていたのでしょう。

 

山の麓は、今も池のようになっていますが、かつては宮川支流が流れ、川原祓(三ツ石)があることから、ここで祭祀をおこなったのでしょう。
川を越えて、水害の無い標高21mの尾根に登ったところに宮を置いたわけです。最初からこんな立派な階段があったとは思えませんが。

ここを流れていた宮川支流は、1707年の地震で寸断され、池(中の御池)になったとのことです。

・高宮に登ると、なぜここに作ったのか?という疑問がでてきます。 

そして、ひとつの答えとして、高倉山には多くの古墳があり、頂上には大規模な墳墓があります。この地の氏族である磯部氏は、頂上を拝して祀るために高宮をここに祭ったのではないか、と感じます。

山田原の地主神は大国主の系で山中には祠もあったという説も古文書に残るそうです。

高宮で気が付いたことは、本殿とは異なり南東を向いていることです。日本の神社は古来、東向きなのですが、中国の北極星信仰(太一)が伝わってからの神社は内宮、外宮のように南面しています。

きっとそれ以前からこの高宮はあるのでしょう。ひょっとすると、最初は高倉山頂上を向いていたのかもしれません。

高宮から高倉山頂上が望めるのか、断面図を見てみますと、木々が低ければ直接古墳が見えそうです。江戸時代までは、この付近から高倉山頂上に登る道があり、参拝客でにぎわったそうです。

また、手前に土宮、風宮がありますが、これらも位置的に外宮本殿より高宮に関係するように見えます。 土宮は東を向いていますが、平安時代末期に、格上げされることになり南向きにしようという動きがあったものの、昔から東を向いている故、向きを変えないとのことになったそうです。(皇学館資料)

橋に使われた亀石といわれる大石は、高倉山古墳のものといわれますが、これもどのような経緯があったのか、また三ツ石のいわれも消されてしまったのでしょう。


・磯部氏の権力増大を懸念する政府は、8世紀はじめ磯部氏に止由宇気神を祭りアマテラスの食事係をするよう命令を出したのでしょう。磯部氏は河原の湿地帯に盛土し、止由宇気神を祭る場所を作ったと思います。
内宮では、荒祭宮より高い位置になるような大規模な造成をおこなっています。外宮では、高宮が止由気神(本殿)より高い所にあります。これを見ても高宮は、止由気神(本殿)より古い時代からあったと思います。高倉山古墳や、高宮より低いところに豊受(止由宇気)神を祭ったということは、度会氏、朝廷ともに微妙な想いがあったからでしょう。


敷地は内宮と同じくちょうど条里制に基づくサイズで、地図のように高宮につながる神路通りが邪魔になります。通りは脇に迂回させられている形なので、高宮や神路通りが外宮より前からあったように見えます。神路通りのある北御門からの参道は本殿の脇を通って正面に回り込んでいて、なにか不自然に見えます。

「自分たちのカミのほうが大事だから高い所に」度会氏
「止由宇気神は食事係だから、低くてもまあ良いか。」朝廷
「地方神が高宮とはけしからん、字を変えよ」 明治政府
(明治政府は、神域内の小さな祠を整理してしまったようです)
 

条理制の普及は7世紀末から8世紀とも言われ、外宮が整備された時期とも合います。

盛土された敷地は今でも周囲より2-3m高くなっており、湿地帯なので浸水を防ぐ配慮があったのでしょう。江戸時代にも、いろいろ対策がなされているようです。

対照的に平成期に作られた最新のせんぐう館はCADを駆使して設計し、現地事情を考慮しなかったのか、低い場所に造られて大雨で浸水し2年以上復旧に費やして休館していたことが思い浮かびます。

 

・内宮でも荒祭宮がもとの宮であったという説があるように、以上のように外宮でも、高宮が本来の宮だったと考えても良さそうに思います。

 

・日本書紀、古事記では外宮の創始に関する記述がないことや、御饌殿が作られたのは710年以降であること、内宮でも三節祭(年三度)には、自ら大御饌を捧げることになっていたので、日々の御饌は度会宮の仕事として外注したと言うことかもしれません。

 

禰宜の磯部氏が度会(渡相)の名を天皇から受けたのも711年というタイミングであり、そのころ何らかの動きがあったのでしょう。また、止由気(豊受)神を送り出した丹波の真名井神社では、719年に社名、主祭神を変えたそうです。

 

・呼び名も804年の儀式帳では、度会宮、止由宇気宮です。豊受という字があてられたのはいつでしょうか。外宮という呼び名が使われるのは、平安時代以降です。位置づけは政策によって変わってきたのでしょう。

 

外宮もその創始から隠されていることが多いと思います。

政治、権力、利害、外国の影響を強く受けてきた伊勢神宮は関わった人々の歴史を内在します。現在の姿は現代の世相を映すあくまでも一つの顔なのでしょう。

山田の町は、中央政府の圧力の中で、自らを守り地域を活性化してきた地元氏族の度会氏の貢献によって発展してきました。 高倉山や多賀宮(高宮)は、じっと耐えながら見守っているのでしょう。

 

いつの世も国を守るため、都合の悪い記録は、廃棄されたり、改ざんされたりします。古文書の分析とは別に、出雲大社のように発掘調査はできないのですが、現地のどこかに形跡が残っているかもしれません。

PS2022/1/29,2/3(rev)