内宮別宮 瀧原宮の謎 | ReubenFan

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伊勢神宮/Ise Jingu

瀧原宮 

熊野街道沿い、伊雑宮とともに内宮の別宮という高位にある大規模な神域なのですが。。。

・不思議な宮です。

五十鈴川上流に皇太宮が祀られる前にあったそうです。

四十四ヘクタールという広大な神域、地方豪族や土地のカミを祀る神社とは規模が違います。

朝廷の力が感じられます。しかし、古事記や日本書紀には記事がありません。

鎌倉時代に外宮禰宜度会氏によってつくられた「倭姫命世記」で、元伊勢との位置づけがされていますが。

 

追記:瀧原宮の創始について 天武天皇が関係すると想像してみました。

滝原宮の緯度と天武が籠った吉野の金峯山寺の緯度がぴったり同じです。

金峯山寺は、修験道の役小角が拓いたとされますが、天武の道教とも関係します。

 

神域に入ると、御手洗場を流れる頓登川、御手洗場、参道、など内宮と配置は良く似ています。
皇太宮-内宮の原形といってもよいのではないでしょうか。
土地のカミではないのか地元の人たちが詣っている様子もありません。

 

 

 

 

 

・なぜこの場所に、創ったのでしょう。

今は、伊勢、松阪から瀧原に向かいますが、ヤマト朝廷の時代は、飛鳥が中心ですから、ヤマトから伊勢に向かう途中に滝原が位置していたと思えます。


当時は、便利なところで、東に向かう伊勢方面と南は熊野、熊野街道を外れ、南側の和井野というところを通って伊勢方面に向かうルートも江戸時代まで使っていたようです。 峠を越えて太平洋側の贄浦にも繋がりますから、朝廷への海産物の贄をここで中継管理していた要所という想像もできます。

 

もちろん今の国道42号線は昭和に入ってから土木工事によって開通したものですから、本来の熊野街道は、瀧原神宮の裏から七保峠を越えて伊勢湾方向に向かっていました。

もっとも道がまだ開けていない飛鳥時代は船で宮川を行くのが早くて安全だったのでしょう。

 

 

「対照的に皇太宮を創った五十鈴川上流はまったく不便なところで、政治意図的にアクセスが悪いところにしたのではないでしょうか。」

 

そして、興味深いことに、瀧原の近くに舟木という土地があります。今も、宮川を渡る舟木橋があります。


舟木氏は、天皇家と親戚関係にある渡来系の海洋豪族です。当時の主要な移動手段である船を作り、河川や伊勢湾でも欠かせぬ氏族だったのです。なぜここに舟木氏が?

瀧原宮と、どんな関係があるのでしょうか。

 

瀧原宮には、御船倉があることは、なんらかの関係をうかがわせます。

木材の豊富なこの地で、木材を得て宮川を流し、船を作り、伊勢湾から外洋にもでていったのでは?
朝廷は、6,7世紀に朝鮮半島に大量の軍船を派遣しており、伊勢にも造船拠点があったことから、これもなにか関係していそうです。

これらの史実はすべて、「倭姫命世記」によって、ファンタジー化されて、現代の人々もそのファンタージを楽しんでいるので、それはそれでよいのかも。滝原宮前の子供向けアニメ看板では、かっこいい倭姫命が活躍してます。歴史を論理的にとらえるギリシャ時代からの流れを持つ西洋文明とは異なる文化なのでしょう。

 

・多気郡か度会郡か

これも、不思議です。このあたりは、多気郡(シャープ多気工場がある)と度会郡の境界にあります。
現在は度会郡に属しています。しかし、郡の境界線を見ますと、周囲は多気郡ですが、意図的に度会郡に取り込まれたという感じがあります。宮川沿いの舟木という集落も取り込まれています。

続日本書紀(797年)に698年多気太神宮を度会郡に遷すという記述があります。瀧原宮は当時多気郡管轄であり、多気太神宮ではなかったかという説もあります。

ちなみに大化5年(649年)に多気郡が度会郡から分立しています。その時以降は多気郡に属したのでしょうか。それがまた度会郡に戻ったのかもしれません。

 

外宮との関係があるらしい。瀧原宮のエリアは、度会氏のテリトリーであり、宮川沿いではカミ祀りもなされていた場所です。 度会氏が、自分の拠点(伊勢 山田)から遠いところを斡旋したかも。

 

度会氏は、外宮のある高倉山に自分の大型古墳をもち、そのあたりは、度会氏の本拠地でした。宮川も斎の宮川と呼ばれていたので、度会氏が川祀りをしていたと思われます。上流は聖なる地になります。
 

・推測するなら、当時朝廷と伊勢で勢力を持っていた度会氏とのせめぎあいがあったのかもしれません。 度会氏は、自分の領地に朝廷が皇祖神を祀るということは、最初は受け入れたくなかったのでしょう。 朝廷は、それなら、瀧原を多気郡に分立して、そこに皇祖を祀るぞ。ということにしたののでは。

 

・また、別の考えもできそうです。

度会氏は、朝廷から、「天照を祀る場所を確保せよ」といわれ、外宮のところではなく離れたところにある瀧原を差し出したのかもしれません。そして、朝廷は、その場所を度会氏の影響を受けないよう度会郡から切り離して、多気郡に入れたとも思えます。

649年に多気郡に境界変更し、多気郡の瀧原に皇大宮があったことになりますが、その後、

文武2年(698)12月 多気大神宮を度会郡に遷したという記録があります。

698年ごろ五十鈴川上流に皇大宮ができたと思われますので、それまで瀧原に天照が祀られていた可能性があります。.

当時は朝鮮半島もたいへんな時代で、

 663年の朝鮮 白村江の戦いで3万人近い日本軍が唐軍に大敗したといわれます。

日本は自国の弱さを知り、政治が大きく変わった時期です。倭を日本と変え、中央集権により立て直そうとしたわけです。 そんな時期、壬申の乱を経て天皇になった天武は、瀧原宮を気に入らなかったのでしょう。

 

そして、今度は、度会氏の身内である宇治土公氏に圧力を加え、五十鈴川上流の広大な土地を朝廷に献上させ、そこに皇大神宮を創ることにした。

そして、そこに多気郡の瀧原に置いてあったアマテラスを皇祖神として移したということかも。

その後は、この地を多気郡から度会郡にもどして、皇大神宮の管理下にしたとすれば、筋がとおるような気がします。

 

このような経緯ですから、当然度会氏は、「朝廷のいうことを聞かない豪族」の烙印をおされ、皇大神宮の禰宜にはなれず、外宮で天照に仕えるという屈辱的な地位にしたのでしょう。 まあ今の政界でもよくあるパターンですが。


 

どちらの郡にあるかというのは、今日の国家間でもたいへんなことなのですが、当時も当然権力争いがあり、神宮司が管理、制御するには、度会郡にあることが必要だったのではないでしょうか。逆に多気郡にあっては都合の悪いことがあったと思われます。滝原宮に関する記録が抹消されているのも関係しているのかな、と思えます。不都合は記録に残さないのは、現代にもありそうなことですけど。

 

瀧原宮:中央集権を進める朝廷と地方豪族である度会氏の微妙な戦いの跡と感じます。

 

(現在、神社本庁や神道政治連盟でも権益に関する事件が続き、地方の有力神社への関与が強まっていますが、カミが人間社会とかかわりを持った昔からのことと思います。)

 

上述のように、瀧原はかつて多気郡だったそうで、多気大神宮と呼ばれてもおかしくありません。『続日本紀』で書かれるように、698年に度会郡の(五十鈴川上流)に移したと考えている論文も多いようです「筑紫申真氏:アマテラスの誕生」では、伊勢神宮の創始は、698年以降との見方。

 

797年の『続日本紀』では、編纂者に対する政治的圧力が無くなって、本当のことを書いてしまったのかなあ、と思ったりして。

 

・祀られているのは

瀧原宮 天照大御神御魂
瀧原並宮 天照大御神御魂

内宮の荒祭宮とおなじような構成ですね。

この土地のカミ祭とは関係ないし、政治的につくられた感じがします。
 

天照は天皇家の祖神ですから、当初は庶民とは関係なく、おそらく伊勢神宮と同様に庶民は参ることもできなかったのでしょう。 江戸期には熊野詣の途中にあり、庶民も立ち寄ったと思われます。今のように本格的に整備されたのは、明治以降の天皇制国家になって国家が財政負担してからではないでしょうか。

 

2020/11
並んでいる神社:良く分からないということは、なにか本当のことが隠されているかも

 

若宮神社

祭神は詳らかではなく、天水分神あめのみくまりのかみとの伝説

 

長由介神社、川島神社、由緒は古いとされていますが、詳細は不明。(神宮サイト)

この宮は、他の社と異なり、西面しています。

東向きに拝むわけですから、日本古来のカミ祀りです。


これらは、地元のカミ祀りで度会氏が宮川上流のカミとして祀っていたのかもしれません。

そこに、アマテラスを持ち込んだということも。

 

2022/3 追記 :ひょっとすると、

天武天皇が、滝原宮を造り、持統天皇が五十鈴川上流に遷したということも妄想してみました。

 

筑紫申真氏の「日本の神話」では、瀧原宮は、朝廷と度会氏との関係でこの場所に創建されたとの説が紹介されています。なるほどと思われるところもあり、これは、追って調べてみることにします。
宮川(豊受宮祓川というのが元の呼び名らしい。)は、度会氏が禰宜である外宮(豊受宮)を流れていたのですが、その上流に当たるのが、この瀧原地域なので、どうも度会氏つながりではという考え方。

2020/11 ・追記