教えてお伊勢さん(非公式版) 6.伊勢の注連縄(しめなわ) | ReubenFan

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伊勢神宮/Ise Jingu

なぜ、伊勢神宮に注連縄(しめなわ)はないのですか?

 

神宮では神聖な場所を示すものとして「注連縄」ではなく「榊」を用いているそうです。

 

「皇大神宮引付」という書によれば、宇治土公の遠祖を検見すれば、五十鈴河上地主で賢木(さかき)をもって神殿となす、と示されます。伊勢神宮の大内人となった宇治土公氏は、賢木(榊)を用いて神を祀ったのでしょう。 ”さかき”にカミが乗り移っているといわれます。

 

明治以降、宇治土公氏は、猿田彦神社を創建し、その宮司になっていますが、注連縄の形は、家々に飾られるものとは異なります。

 

一方、出雲大社には、蛇の交合を模したと言われる巨大な注連縄が飾られます。

これは、伊勢神宮内宮にはありません。

内宮付近の宇治地区では、「宇治飾り」というものが伝統となっています。

 

ここで、不思議なことがあります。
ところが伊勢の町では一年中注連飾(しめかざり)を飾っている。

伊勢(山田地区)や周辺の町では、1年中、ほとんどの家の玄関にしめ縄が飾られています。

 

もっと驚くことには、しめ飾りの縄には、

「蘇民将来子孫家紋」という木札がついています。

 

蘇民将来は、アマテラスが追い出したスサノオの話です。話の中身は略しますが、この札はスサノオが蘇民将来一家に難を逃れる護符としたものといわれます。


なぜ、アマテラスを祀る伊勢で、対立する出雲の神であるスサノオの札を1年中掛けているのでしょう。 

 

内宮と対立していた外宮が背景にあるのではないでしょうか。

 

蘇民将来の札は、かつての五十鈴川河口にちかい二見の松下社(蘇民の杜)が頒布したといいます。 ヤマトヒメ一行が二見に上陸したとき、二見では、佐見都日女命が対応しました。姫は朝廷とは対立した出雲系で伊勢から追い出された伊勢津彦の娘であるとのこと。

佐見都日女命は無言で堅塩を差し出したという微妙な伝承は、開拓した土地を決して好んで手放し、朝廷に帰順したのではないことを暗に示しているともいわれます。

二見は猿田彦をはじめ、松下社のスサノオなど出雲色の濃い土地です。

 

外宮の禰宜でこの地方の豪族だった度会氏は、出雲系であり、対する内宮につながる道や、五十鈴川には見張りを置いたそうです。二見の興玉神社も度会氏の祖先神 大若子を祀っている。

 

勝手な想像をするなら、度会氏は、天皇の命にしたがい外宮でアマテラスの食事係を拝命するが、対立する出雲、スサノオの印である蘇民将来の札を山田の町家につけさせたのでは、と思ってしまう。

 

1000年以上の年月により、伊勢の人たちもこんなことは意識していないようです。これらは触れてはならないことののでしょう。

 

江戸時代からの歴史を展示する河崎商人館にも注連縄と蘇民将来札がならんでいます。
今でも、毎年この地方ではこれを飾るのがならわしです。

もう「蘇民将来」は害のないただのお守りの意味しかないのでしょう。

 

 

ちなみにその木札の裏には、星のセーマン 、格子のドーマンが描かれています。
星の印は安倍晴明の判紋でセーマン呼ばれ、格子は蘆屋道満に由来するドーマンといわれます。

平安時代の陰陽師の紋がなぜ使われているのか? 
伊勢神宮は、天武天皇がハマっていた道教の影響を受けています。その関係なのか?

 

神宮や観光協会が教えてくれない謎が多いのが、伊勢の魅力なのかもしれません。

 

●正月飾り、やはり内宮近くの宇治地区では、違った!
内宮に近い宇治地区では、「宇治飾り」と呼ばれるお正月飾りがあることが報道されました。

それも、サカキ(榊)などを使うもので、内宮の鳥居などにサカキが付けてあるのと同じ形式です。

山に降りたカミが憑くといわれる榊を飾ることが、神宮以前からこの地方にある本来の姿なのではないでしょうか。 サカキに榊という中国にはない文字を作って当てたのも「神の木」であったからでは。

 

報道(朝日)では、「この地区には田んぼが少なく稲わらが手に入りにくかったので」と理由を伝えます。

果たしてそうでしょうか?報道者はしっかり検証してほしいです。

内宮のある宇治地区では宇治飾りを本来の土地のカミに、また外宮のある山田地区では稲わらのしめ飾りを飾り、渡会氏がスサノオ、出雲の存在を示したのではと思ってしまいます。 (2018/12追記)