神宮のサイトでは、次の説明があります。
伊勢神宮 125社
「皇大神宮に27社、豊受大神宮に16社の摂社があります」と書いてあります。
摂社(43社)は『延喜神名式えんぎじんみょうしき』に記載されているお社です。
927年にまとめられた延喜式にある伊勢太神宮式には、諸社として、太神宮24社、度会宮16社が挙げられています。摂社という表現は、明治政府によって定義されたようです。また同書では、度会宮(外宮)は、太神宮の別宮との位置づけになっています。 まだ内宮外宮という組み合わせになっていません。
(外宮という呼び方は、平安時代以降とも言われています)
興味深いのは・・
・125社まとめて語られることが多いです、が。 実は、摂社の43社がある地区は、内宮、外宮ではっきりわかれています。それはなぜか?
それにしてもなぜこんなにたくさんあるのでしょうか?というか、たくさん必要なわけがあったにでしょう。
・内宮の摂社(27)は、大きく分けて2グループ
1)五十鈴川から二見にかけて
摂社第一位は、朝熊神社、第二位は、朝熊御前神社です。なぜここが最上位か、意味深。
朝廷により伊勢神宮が創られる以前に、この地域で川や山を祀っていたところでしょうか。
2)内宮から離れた、宮川の対岸付近
今の玉城町に集中しています(16/27)。園相(そない)神社など、朝鮮系のカミが多いのも特徴です。
なにか、わけありの感じです。
・外宮の摂社(16)は、伊勢市の市街地がほとんど、宮川の対岸には小俣神社1社のみ。
なぜ内宮、外宮で摂社の地区が分かれているのか、理由は、はっきりしてます。
それぞれの禰宜の拠点に摂社があるということです。
・内宮の世襲禰宜である荒木田氏は、宮川対岸の玉城町に拠点がありました。その地を開拓したことが認められたのです。当時は、朝鮮半島からの渡来人がその技術、知識で各地の開拓を進めていました。
岡田精司.著 「神社の古代史」によりますと、
荒木田 という のは「 新墾田」 で 新た に 開墾 し た 田 の こと だ と 思わ れ ます が、 実際 に 大貫( 大野木) という ところ で 新た に 開墾 し た 土地 を 荒木田 氏 の 先祖 が もらっ た という 伝承 が あり ます。
また、考古学者によれば、そのあたりはもっと古い時代から開梱され、田が存在したという論もあります。荒木田氏が実際に何をして、皇大神宮の禰宜になったか、謎です。(PS)
荒木田氏は釜山の近くの阿羅というかつて朝廷の出先があった国から来た人たちの系統とも言われ、荒木はその日本姓といわれます。また、内宮の北にある氏の墓地は。韓神山と呼ばれています。
内宮摂社3位は、園相(そない)神社です。白木(しらき)というところにあり、この地名の由来は新羅といわれています。園神というのは、かつて宮内省に祀られていた朝鮮新羅のカミです。
荒木田氏のテリトリーのこれらの社が、内宮の摂社として保護されていたわけです。なぜか玉城町には朝鮮由来の名前の摂社や地名がいくつかあります。荒木田氏が氏神とした小社神社(末社)は「おごそ」と読みますが、古朝鮮語で「こそ」は神社だそうで、日本各地になんとか小曽と書く神社があります。
こんもり茂った森に小さな社があるというスタイル、渡来人の神祀りがあったのかもしれません。
内宮摂社4位はこれも玉城町の山中にある鴨神社です。その真東に朝熊山頂上があります。賀茂氏とのつながりがあるとも言われます。
荒木田氏は、伊勢神宮が祀られた8世紀から200年、その氏名である荒木田を表に出していません。
これも、なにか関係があるのでしょうか。
・外宮の世襲禰宜の度会氏は、磯部氏の系統の豪族で、朝廷から度会の名前を与えられたそうです。伊勢の山田すなわち外宮のあったところを拠地にしていました。ですから、ほとんどの摂社が外宮に近い街の中から、海の方向にあります。
この土地に朝廷がアマテラスを祀って以来、度会氏はなんとか地元の勢力を維持しようとしてきたのでしょう。摂社の分布をみますと、内宮、外宮の禰宜がそれぞれのテリトリーのムラを抱えて、管理したような形跡が残ります。はっきり言うと、内宮、外宮の勢力争いがあったわけです。
一方、内宮の摂社で五十鈴川や朝熊山の麓にあるものは、アマテラス以前の伊勢のカミを祀っていたのでしょう。
さらに、興味深いのは、朝廷から派遣された伊勢神宮の祭主、トップである中臣氏の神社は、宮川対岸にある離宮院にあり、春日社、中臣社、今は官舎神社となっています。神宮の管理部門である大神宮司があったところです。
なんと、そこには、伊勢神宮とはまるでちがう春日社風の社殿、神宮では見られない狛犬まであります。
伊勢神宮の最高責任者の神社は、実はまったく別の系統のものだったのです。
中臣氏は藤原氏系で、都では自らの神を祀っていましたので、伊勢をあくまでも政治的に利用したのかも。
いろいろな要素が摂社のありかたにも残っているのではないでしょうか。江戸時代には、国学が盛んになり、廃れていた社を復興する動きがありました。
この時に元の場所もわからない社もたくさんありました。
そして、明治時代、国家神道を徹底する政府は、神社の整理統合をおこないました。
アマテラスを頂点とする神話に邪魔なカミは抑えられ、伊勢地方では神社は1/6に減らされたといいます。
さらに一村一社のため神社合祀によって、村の社は国家が経営する系統の神社に合祀されました。
あの熊楠らが反対するも、たくさんの神社の杜が売られ、消えてゆきました。
例えば、小俣神社は微妙な配置に。中臣社といわれた官舎神社は、地域のカミが合祀され、皮肉にもその地域のカミへの漁師や地元の参拝が多いようです。
内宮、外宮は明治期に摂社、末社を多数抱えることで、地域の社を守ったのかもしれません。
明治時代に、内宮は中絶していた末社21社の再興を願い出たそうで、明治政府はいくつかを認め復活させました。
そんなことは、記録には残さないでしょうけど。
昭和、出征兵士を見送り、そして平成の今は、パワースポット、125社ひとからげでお参り。
さて、次は・・
2019/3 追記編集