伊勢神宮と滝原宮
まず、伊勢神宮、なぜ、いつ、この場所に皇祖神を祀ったんだろう、いろいろ調べてみた。
滝原宮にいくと、伊勢神宮内宮との類似性を強く感じる。どのような関係なのだろう。
やはり、宮川つながりで、度会氏との関係がありそうとの見方も。(筑紫申真著 日本の神話)
度会氏が祀っていたカミは、外宮付近で高倉山古墳もある地区。当時は宮川がそのあたりを流れ、いまも、そのあとが残る。その宮川の上流には、三瀬谷、瀧原といった川のカミが祀られる。
度会氏は、朝廷からの要求に対して、宮川上流の瀧原を推したのではないか。(2020追記)
7世紀ごろ、出雲族の影響は全国に広がっており、ヤマト王権も出雲との関係は、深いものであった。
出雲には高層の社があったことも遺物から証明されつつある。
出雲に国譲りをさせたヤマト王権には、出雲のカミに匹敵するカミがいなかったのだろうか。
これは、国を統一し、治める天皇として、マズイと思ったのでは。。
そこで、アマテラスを引っ張り出し、皇大神宮を建立したのでは。場所はヤマトでは無理。
出雲の対抗上、昔からあったといいたいが、みんなが知っているところに造ると、バレル。
みんなのしらない離れたところ(伊勢)につくったということか。
そして、身内以外は、行ってならぬ、とした。これは機密の意味もあるんだろう。
天皇の御先祖、皇祖神を祀る 7世紀
天武はクーデターの結果として、天皇の座についたが、それを正当化するためにも、なにか精神的な根拠がほしかった。国家統制のために中国から律令制をとりいれ、ハイテク技術も習熟した。そして、将来も続けていくシステムが要る。
天皇として権威を裏づけるには、自分の祖先を最高神とすることが必須だったろう。しかも、遠い過去からその先祖は続いていることにしなければいけない。出雲より古いことはもちろん、中国にも新参者と言われぬよう、歴史を書いておかねばならない。(それらを表わす国定歴史教科書、日本書紀の編纂も命じた)
皇祖神選び
それまで朝廷が祀ってきたタカミムスヒは、北方から朝鮮を通って伝わってものだし、古事記でも扱いに困っている。当時流行の先端、仏教の仏さまも輸入品である。
日本の神が必要だ。 だが、三輪山は、出雲系だからだめ。 日本中でアマテルとかいわれ、太陽の神として知られるるアマテラス、天照大御神が天皇の祖先として最適だった。
神を祖先に持つという仕組みができて、その時から、天皇は、普通の人とはちがう存在になったのだ。
(その後、天武が想像もしなかっただろう1946年、長い間、現人神であった天皇は人間宣言して、人間にもどった)
当時の他の出来事は、神宮にどんな影響をあたえたのだろうか。
朝廷は、各地を仕切っていた出雲に国譲りをさせた(らしい)。おそらく首長は命を奪われたか、自決させられたのであろう。そして、朝廷はその見返りに出雲に大社を建てることを約束した。
どうも、朝廷はなかなか約束を守らない。その祟りを恐れて、ついに巨大な社を出雲に建てた。7世紀の中頃という。それも遷宮しているが。
では、朝廷の祀る皇祖神はどうするのか。これは、出雲に劣らぬ権威のある社を作らねばならない。
実際は、どちらが先だったのかわからない。でも、朝廷は、伊勢はずーと昔(当時から800年遡って)からあるように記録に残した。まあ、当時は考古学なんかないし、なんとかつじつまを合わせればよかった。
もっとも、現在も「観光資料」では紀元前に神宮が創設されたことになっているわけだが。
対外政策
日本は、朝鮮半島にも植民手的な国を持ち、貿易も盛んだったという。しかし、中国も朝鮮半島に大きな力をもつ。400年後ころには、日本からの派遣軍数万人が惨敗した記録もある。660年台には、朝鮮半島の白村江の戦いで、2-3万人といわれる日本派遣軍が大敗している。
大変な時代だったのだ。 当時、九州には、防衛基地も設けられていたが、皇祖神は、日本を外国の脅威から守る役目も与えられたのだ。
それ以降1200年も後の太平洋戦争まで続いた。アマテラスを祀る神社は、朝鮮はもとより、台湾、アジア諸国、南洋諸島にまで建てられたという。
仏教寺院の神社に対する影響
先進国である中国とは、長い付き合いだったが、朝鮮を経由して、仏教が伝えられると、飛鳥の大王(天皇)や貴族は、夢中になったようだ。中国ブームで、そのころは、飛鳥には、ハイテクの高層建築が次々と建てられていた。
6世紀から7世紀にかけて、仏教の推進とともに法隆寺や、飛鳥寺などが姿を現した。建設技術も渡来技術者により、確立していった。 労務や税で日々の生活の困窮にあえぐ人々には何の縁もない建物だが。
神社の建築はいつから?
古墳時代から、飛鳥時代、神は、山や、岩、川など自然に宿るもので、人々は屋外で神祀りをしていたという。朝廷が信仰していた三輪神社は、三輪山を神とし、祀るものである。
神が、社という建物に祀られるというのは、仏教の仏のように、神が人格化し、建物に居住するという考えができてからだろう。それに対して、日本の神はいかにも古くさいイメージだったにちがいない。
先進国から来た人が、なんだ、まだ山や岩を祀っているのか、遅れてるなあ、といわれたくなかったのだろう。
そして仏教寺院に倣って、仏を祀ってそれを拝むということを、日本の神にも取り入れたのだろう。
造営敷地
内宮は、山の斜面を造成し、100mx50m を2面という当時(7世紀)の技術では先進の工事で敷地を作っている(当時の条里制に近い標準サイズである)。渡来人が関与している。
斜面ゆえに、遷宮用の東西殿地は標高差が4mもある。
造成資金も、有力氏族が出したともいわれる(秦氏)。多数の労働者の動員は律令制にて朝廷が当時整備した戸籍や地方豪族管理により可能となったのではないか。
社の建築デザイン
新発想として、天照大御神も仏教のように寺院に祀ることにした。 日本らしい社の建築デザインをおこない、そこに天照を祀るのだ。この時代に今の伊勢神宮の社の原型ができたのだろうか。
仏教寺院に対抗するものにせねばならない。シンプルかつ美しい。 素材も自然だ。もっとも、神宮の社には、五色の座玉が装飾されている。天武が影響されていた中国思想、儒教から来たもので、それが何気なくデザインに融合しているのは、これまた驚くべき事実である。
法隆寺の建築分析から、伊勢神宮社殿建築との共通要素が指摘されている。(尺度、デザイン)
その2 滝原宮 につづく
瀧原宮の謎 へ
滝原宮参道
2018/8 PS
