神宮徴古館とせんぐう館で思ったこと。 | ReubenFan

ReubenFan

伊勢神宮/Ise Jingu

伊勢には「神宮徴古館」、外宮には「せんぐう館」がある。訪れてみた。

せんぐう館 
たしかに、きれいに作ってある。だが、建設費25億円のうち8億円は、日本財団が提供し、多大な予算を大手のコンサル(丹青研究所)建設会社(大成建設)が費やしたような印象しか残らなかった。

 

日本財団 では、「この式年遷宮を記念して伊勢神宮外宮に建設された資料館「式年遷宮記念せんぐう館」の建設費約25億円のうち8億円をご協力させていただきました」とのコメント。

 

恐れ多いことだが、入場料を払って入る観光地の見世物小屋的な感じだ。
遷宮も「せんぐう」となりイベント化し、神宮を支えていく。 すごいことに7世紀の天武、持統の思惑は1300年を経てこのような形になった。

当然、神宮の説明は、「伝承によると」、という範囲をこえることはない。その事はここでは鉄則のようだ。
参拝者や観光客には疑問を呈する情報を出してはいけない。

匠の技術の伝承が主題になっているが、それ以上に掘り下げるという博物館的な姿勢は感じられない。

特に、内宮と対立してきた地元勢である外宮にこの施設が造られたのは、外宮を守ってきた度会氏にとって、屈辱的かもしれない。(そして、なぜか大雨による浸水で、せんぐう館は閉鎖されたままである。)

令和元年11月に再開される予定である。

 

外宮は、遠い過去より湿地帯であったこの場所を避け高台につくられているのだ。ここに地下構造物をつくるという技術過信も併せて、カミは警告を発しているようにも思える。  (追記2018)

 

まだ再開されていません。いつになるかも決まっていませんとのこと。周辺の治水工事が予想以上に難航しているようです。外宮という場所は、もと度会氏が祀っていたところであり、ここに対立していた内宮に関係するものを作るというのは明治以前ならあり得ないことですし。カミさまもご機嫌悪いのでしょう。(追記2019/3)(2019/7)

 

もっとも、戦前の国家宗教化による国民統制、戦後の占領軍による徹底排除、天皇問題、首相参拝など神宮は数々のややこしい背景の中で生きていかねばならないとを忘れてはいけない。

また、敗戦により国家経営を昭和20年末に外された神宮は、形式上民間宗教法人として、さらに歴史を続けねばならない。それには、経営的に成り立たねばならないのだ。とはいえ、国家とのつながりは強く感じられるが、もはや神領からもたらされる収穫物も国家予算もない。 神々も今の商業化を容認しているだろう。パワーの原資だからだ。

そして、フランス建築風の神宮徴古館。

なぜ日本古来の神宮の博物館が、このような西洋風の建築物になったのか。明治期の神宮の在り方を残す興味深い建物だ。

もはや江戸時代の庶民の物見遊山的な参拝対象ではないことを知らしめる権威の象徴に見える。
天皇の祖先神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮、その歴史的宝物を公開するのは、フランス風建築の徴古館なのだ。庭園も小規模ながら、ベルサイユ風だ。さらに内宮入口付近は、御師の宿や民家を撤去し、西洋風の庭園が設けられた。

 

実は、7世紀末も同じことが起きていた。地方の原始的なカミ祀りの伊勢のカミは、国家により道教や中国文化、技術の影響を受けて神宮として整備された。今も続く神舞は、国際色豊かだ。(これは、明治時代に神宮が宮内庁に申し出て、演奏や舞を習得したという。)

当時の日本は、朝鮮半島、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗したあとである。敗北により外国の強さを知り、飛鳥には、最新の仏教寺院が建立され、藤原京は中国の都市の設計を持ち込んでいる。

同様にカミ祀りも、”近代化”されたのだろう。


明治、1200年の時間を越えて、再び国家が神宮に関与してきた時期だ。 
面白いことに、歴史は繰り返す。
かつての天武天皇の時代も海外の文化を意識し、先進文化を取り込み、国家の神としてより権威を高めようとする動きがあった。明治憲法でも天皇は神の子と明確に位置づけられた。江戸期の鎖国が終わり、大きく変動する世界の中に取り込まれた日本は、神の権威に守られ戦っていかねばならなかった。それも1200年前と同じように。今度は中国文化のかわりに先進の欧州文化を取り込んだ。


日本の神の存在は実にダイナミックかつ巧みだ。
天武天皇の命で編纂された神の史書、日本書紀や古事記が、1200年後の国家の教育にも取り込まれたのだ。 このような時を超えた権威の事例が世界にあるだろうか。
縄文期より変化をしながら続いてきたカミ祀りが、ついに国家神道としての位置についた。

徴古館には、神宮の宝物が展示されている。遷宮の度に同じデザインでつくりかえられるという。とはいえ、時代に合わせてアレンジされてきたのだろう。 多大な費用をかけ、高い工芸技術の維持をしているのも神宮あってのことだ。一方、ここでは、稲作や絹の生産などが重視されている。かつての神社は、政治だけでなく、国造りの基礎である農業、工業をも支えるセンターであったのだろう。

ただ、記憶に残ったのは、一番見栄えのしない農業館の展示だった。そこには宝物はない。ただし国を守るのは、産業である。当時の先端産業である農の産物から、生活の安定を祈り、神を祀ってきた人々の弥生の古来からの姿が見える。その技術の多くは大陸からの渡来人によってもたらされ、日本の固有技術によって、この国に定着してきたのであろう。 この古来からの展示をみると、この国は今も同じことを繰り返していることを強く感じる。

神宮徴古館

 

 

徴古館

 


農業館 明治の当初は外宮前にあったが、徴古館の横に移されている。

内部は、素晴らしいが写真撮影はできなかった。
農業館