ReubenFan

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伊勢神宮/Ise Jingu

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別宮 瀧原宮 

 

伊勢神宮に興味を持って6年たちました。しかし、謎が増すばかりです。

 

それにしても瀧原宮は本当に謎です。

広大な社域、長い参道、内宮手洗い場は瀧原と同じ形式。五十鈴川上流は大内山川の大滝峡と同じ。伊雑宮のように地元に根付く宮ではなく、新たに建設し、短期で移して、別宮となっています。

 

しかし、いったいどんな経緯で、なんのために創ったのか、なぜ別宮として高位を与えられ、大切にされてきたのか。書紀にも載らず、何かの意図があって隠されてしまったように思います。
案内書には鎌倉時代の倭姫命世紀に書かれた創始の由来が書かれているのですが、「良いところだが、気に入らなかった」という程度の説明です。
 

なにか、大きな権力で情報が消されてしまったように思えます。消さねばならなかったほど都合の悪いことは何だったのか、気になります。(まあ今の時代でも同じようなことは時々ありますけど)
また、伊勢神宮の創建については、多くの研究者や著作、議論があるのですが、瀧原宮についてはそれを見つけることができません。
 

このような場合、歴史的な知識もないので、いつものように勝手に妄想してみます。研究者や歴史に詳しい方々からみれば、一笑に付されるようなものですが。

 

結論から言うと、「天武が瀧原宮を祀ったが、持統が気に入らず、遷してしまった」という思い付き妄想です。かなり無理があるのですが。
 

  • だれがいつ?

    広大な敷地、皇太宮(内宮)の原形を思わせる配置と佇まい。
    磯部(度会)氏のテリトリーでもあり、国家レベルの権力と予算がなければ作れない宮です。
    しかし天武期までをカバーする日本書紀にも、続日本記にも創建のことは書いてありません。

    創建はひょっとすると天武天皇か? 壬申の乱の後、味方のいない朝廷でクーデター政府立ち上げ、というたいへんな状況。神仏、道教に傾倒し、なにかと敵の多いヤマト以外の土地で自分の守護神となるカミを祀りたかったのではないでしょうか。
     

    中央の氏族や貴族とはうまくいかず、地方豪族を向いて、地方文化を重視したとも。
    天武4年(675年)には、各地から芸達者な人間を集めています。神話や歌謡、伊勢のカミの伝承も磯部氏から出たサルメの子孫から聞いて伊勢方面には関心あり。

    天武天皇2年(673年)には、大来皇女に泊瀬斎宮で心身を清めさせ、674年には伊勢(のどこか)に派遣しています。天照大神宮に送るということが日本書紀に書いてあるそうですが、そのころ天照大神宮という概念はあったのかなあ? 
    日本書紀は、天武の指示で作ったとの話になっています。しかし、実際は、天武晩年の681年になんらかの指示をしたものの、具体的な編纂は藤原不比等が持統天皇を持ち上げて、自らの勢力拡大の根拠とすることが方針になっていたようです。
    アマテラスもいかにも天武から引き継いだような話になっていると感じます。
    日本書紀は当時の教科書でもあり、編集時の調整でいろいろな書き換えがあることが指摘されています。アマテラスに関してはかなり徹底して織り込んでいるようです。
     

    続日本記では、698年に「多気大神宮を渡会に遷す」とあります。とすると大来皇女は686年に帰るので、 その間は、まだ五十鈴川上流には「伊勢神宮」はできていなかったとも考えられます。 皇太宮が出来ていないのに、大来皇女を派遣したということになりますが。まだ斎王という表現があらわれる前ですし。

  • この時は、まだ天武天皇の私的なカミ祀りだったのではないか、と想像します。
     

  • 祭神
    個人的には、なんど瀧原宮を訪れても、天武がそこに大日孁貴(アマテラス)を祀っていたとは思いにくいのです(後述)。 天武は、伊勢の有力豪族である磯部氏の土地である瀧原を整備し、守護神として自分のカミを祀ったのかもしれません。そのカミは、壬申の乱で祈ったという伊勢の大神だったのでしょうか?
    そうなると、天武は瀧原宮のカミに奉ずるために大来皇女を送ったとも考えられます。天武は伊勢の大神を祀り、壬申の乱に続き、政権の成功を祈ったのでしょうか?その時は、多気郡の斎宮でカミ祀りもおこなったとの説もあります。しかし、五十鈴川上流にはまだ皇太宮はできていなかったといわれますが、その時には存在していたと思われる瀧原宮を無視することがあるのでしょうか。

  • 場所
    地図をみますと、瀧原宮はなんと吉野の金峯山寺とぴったり同じ緯度です。
    アスカからは、山を越えて宮川を下り、大内山川に入ればれば瀧原に着きます。

    天武にとって吉野は特別な場所です。出家し神仏に没頭、クーデターを構想した吉野。そのころ道教に関係する修験道の役小角が開いたとされる金峯山寺の真東、緯度が同じ瀧原に宮を置いた。天武ならでは構想ではないかと思うのですが。

    ここは、宮川の上流で磯部氏がこのあたりで水のカミを祀っていたともいわれるところ。磯部氏領の度会郡だったのですが、なぜか一時的に多気郡になっていたそうです。これは地方豪族の一存ではできないことで、天武は磯部氏(度会氏)の関与を排除したくて、多気郡に組み込んだかも。

    Googleより
     

  • 大来皇女は?
    まだ五十鈴川上流に皇太宮がないとすれば、大来皇女はどこに居たのでしょう。親なら朝廷の領地があり安全なところを選ぶでしょう。斎宮(明和町)での発掘で飛鳥時代の建物跡が見つかっており、そこに居たのでは?ということも考えられます。斎宮かその近くにカミ祀りの場所があったのかもしれません。ただ、斎宮からは、瀧原宮の神奈備山とされる朝間山(733m)が見えるそうです。そこから滝原まで二日ほどの距離ですが、川を上っていくこともできます。
    674年に瀧原宮が整備されるまでは、大来皇女が泊瀬斎宮にて待機していたとも想像できます。皇女のカミ祀りに禊は必須ですが、瀧原宮には禊をするための川として、大内山川や頓登川があります。斎宮歴史博物館の発掘調査に期待しましょう。
     

  • 持統天皇の動き:伊勢志摩行幸で・・

    大来皇女は天武が崩御した686年に伊勢から戻りました。大津皇子が謀反の罪となった背景に持統がいるといわれます。持統は、大津皇子が天皇を継承するのを止めたかったのでしょう。持統天皇は、孫への皇位継承のため690年に天皇の座についています。

    692年には反対を押し切り伊勢行幸しています。なんとか孫の文武を天皇にするための工作を進めていたのでしょう。行幸では、皇祖神を祀る構想を実現に移したといわれます。天武の創った瀧原から五十鈴川上流に遷すこと考えたのでしょう。すでに皇祖神が瀧原にあるのなら三輪高市麻呂はそこまで反対しないだろうから、瀧原には皇祖神は祀られていなかったのでしょうし、692年の行幸は皇祖神を祀る皇太宮を創る行動なので、反対されたのでしょう。
    新しく藤原京を建設し、文武を立てて、遷都をするまえになんとかしたかったのかも。

    この伊勢行幸で気になるのは、なぜか伊勢を通り越し、わざわざ志摩への行幸、阿胡行宮を設けて滞在しています。長門の浦すなわち伊雑ノ浦 あたりというので、伊雑宮があるところです。役人だけでなく志摩の高齢農民にも稲を与えています。その目的は、お気楽なグルメ旅行ではなく、やはり伊雑宮に志摩のカミであったアマテラスのブランドを供出させ、皇祖神として五十鈴川上流に祀ることだったのでは、と想像してしまいます。
     

  • 遷宮
    697年にまだ14歳の孫の文武を天皇継承していますが、それもかなり無理をしてという感じです。 一番必要なものだったのは皇位継承を裏付ける皇祖神で、自らをイメージしたアマテラスだったのしょう。
    文武2年(698年)に「多気の大神宮を度会に遷す」と続日本記に記されることから、698年には瀧原宮から五十鈴川上流への遷宮が完成、アマテラスを皇祖神として祀ったのではないでしょうか。

    この持統の動きで瀧原宮はそれまでの役目を終えたのですが、天武が創った宮を疎かにはできない。
    瀧原に「天照坐皇大御神御魂」を祀って、別宮として体裁を整え、高位を維持したのでは。
    そのような背景なので、持統には斎王を送って祈らせる必要もなかったのでしょう。
     

  • 天武と持統
    皇祖神というイメージは、それまでの天皇(大王)にあったのかどうか。天武までは継承というよりいろいろな経緯で大王になっていたらしい。すなわち、氏族の家のカミはそれぞれちがうし。
    天武は、681年には草壁を皇太子にしているので、継承についてはカミの力を借りなくても良いのではなかったのでは。あくまでも自分を守ってくれる守護神が必要だったのでは。
    ただ天智系の子を外している持統は気になったかも。

    一方、持統は天武の威光を武器にしながらも自らの方向を進んだように見えます。
    皇祖神という概念は、遣唐使を通じて中国からも天皇の妥当性が問われる中で出て来たのか、しかし持統はこれを利用して孫への皇位継承のため皇太宮(伊勢神宮)を創ったとみられます。

  • 経緯の記録抹消
    瀧原宮の事を日本書紀でも記録しないのは意図的なものでしょう。当時、日本書紀は編集を続けていたと思われますが、持統、文武以降、伊勢の皇太宮が確立すると、天武が創った瀧原宮は扱いにくい存在で、経緯は記録に残したくないわけです。
    天武の業績を持ち上げながらも、改ざんどころか徹底した抹消作業が行われたのでしょう。
    情報化が進んだ現代でさえ、権力者が「無かったことにせよ」との意向を示せば、部下はみな口を閉ざすことになりますから、当時は徹底するのは容易だったのでしょう。

    瀧原宮は別宮として重要な位置を持ち続けたので、やはり天武が創った宮である事は、皇太宮でも口止めされたのでしょう。
    もっとも、度会氏が鎌倉時代に倭姫命世紀を出すことで、日本書紀に迎合した瀧原宮創始のお話にしてしまいましたが。
     

  • ということで、瀧原宮は、天武天皇が創ったのではないかという妄想。
    持統は、文武を天皇にするために、それを皇太宮(伊勢神宮)に遷したということにしました。
    大来皇女は、皇太宮ができる前の派遣なので、どのカミに仕えていたのか、分かりません。
     

  • それにしても、瀧原宮には謎が多いです。結局良く分からない。

  • 船倉もあるし、近くにある舟木という地名ですが、有力氏族舟木の拠点があったことはなにか関係するのか?

  • 祭神もよくわからない。 倭姫命世紀には速秋津日子神、速秋比売神とある。

  • 若宮神社は、瀧原宮、天照より高い所にある。

  • 長由介神社、川島神社とは?

  • 滝原宮あたりにたくさんの小さな宮がある。荒れる宮川の上流、度会氏は水のカミ、川のカミを祀っていたのだろう。

 

 

PS:皇大神宮が一般的ですが、今回は、皇太宮という表現を使いました。
古い神宮資料では、皇神宮ですし、当時はなにか意味があったのかもしれません。
子は皇位を継承するのですが、太ですね。
いつから皇神宮になったのか、よくわかりません。
瀧原、滝原
度会、渡会、渡相など、公文書でもまだ漢字が確定してない時代だったし。