自分自身から解放されますように
主よ
私は思いこんでいました
私の心が愛に漲っていると
でも心に手を当ててみて
本音に気づかされました
私が愛していたのは他人ではなく
他人の中の自分を愛していた事実に
主よ
私が自分自身から解放されますように
主よ
私は思いこんでいました
私は与えるべきことは何でも与えていたと
でも胸に手を当ててみて
真実がわかったのです
私の方こそ与えられていたのだと
主よ
私が自分自身から解放されますように
主よ
私は信じきっていました
自分が貧しい者であることを
でも胸に手を当ててみて
本音に気づかされました
実は
思いあがりと妬みとの心に
私がふくれあがっていたことを
主よ
私が自分自身から解放されますように
マザー・テレサ
いつもありがとうございます。
いづみです。
「(私は)○○である」と言えるのは
「○○ではない」がある(と知覚している)からで。
「私は」「自分は」と言えるのは
「私ではない誰(何)か」、「自分ではない誰(何)か」がいる(と知覚している)からで。
そんなことは
当たり前といえば当たり前のことで
此処はそれがあるからこそ成立するのであって。
けれども
もし本当に十全にそう在るのであれば
「私は○○である」とは思わないような
そんな気もいたします。
なんて書いている私も
「私はマザー・テレサの言葉を解釈しようとしていました」
主よ
私が自分自身から解放されますように